十一、再会
| トルクは壁と床のさかい目を凝視していた。 さかい目ははっきりとした直線で、塵一つ見られない。その直線は目に見える限りどこまでも左右に伸びていた。 ――今回は一人じゃない。 トルクはそう思いながら、オルマティロッドを縦に持って、面会時間が来るのを待っていた。 トルクの両脇にはケシルとカイがいる。二人はそわそわと辺りを見回している。今回は他の人間はいなかった。 トルク達が長い旅路を終えて『シティ』への扉を開けると、目の前には多数の武装警官が待ち受けていた。 彼らは「歓迎します。来てください。あなたがたに市長が面会したいと言っています」とだけ言った。そして三人を取り囲んだ。トルク達は物理的に拘束されてはいなかったが、それでも半ば強制連行のような形でここまで連れてこられたのだった。 一体どういう風の吹き回しで市長が自分たちと面会がしたいのか、トルクには見当もつかなかった。自分の論文が再評価されたのなら自分だけ呼べばいいのであって、ケシルとカイを呼ぶ必要性はない。 ――まあ、いいわ。私たち三人とも市長に会いたかったわけだし。 「市長は『十八年の一生』の事を知っているのだろうか」 腕を頭に組ながらケシルが言う。 「市長は知らないのだと僕は思う。知っていたらすでに手を打っているはずだ。重要な人的資源が十八年で失われるのは大変な損害だろうから」 眼鏡を手で触れながらカイが言う。 「俺もそう思う。鼻から『シティ』は、地上のことなんて調べようとしていないんだ」 いつもは静かな廊下も、ケシルとカイがいるために賑やかだった。空気が痛い静寂よりはずっといいとトルクは思う。 ケシルは『シティ』に着いてから、終始無言だった。執務室の前で待つことになってから急にしゃべり出していた。 『シティ』はケシルにとってすべてが驚異であり、大量の驚きに麻痺してしまっていたのだろうと、トルクは考えた。 その方がトルクにとっては都合が良かった。 カイは『シティ』ではひたすらトルクを質問責めにしていた。上へ行くに従って減る重力を生み出す『シティ』の回転、『シティ』のまわりにくまなく張り巡らされた巨大ハーフミラー型シールド機構、莫大なエネルギーをまかなうための常温核融合、理論的には可能でも、地上の人にとってはすべて夢でしかないと思われていた技術が、『シティ』ではすでに実現している。彼は『十八年の一生』が克服されたら、これらの技術を地上へ移植すると意気込んでいた。 トルクはカイの熱意に燃える顔を見る度に、どうしようもないやりきれなさがこみ上げた。 トルクは『シティ』に着いてからずっと、『ヘリウムフラッシュ』を地上の人間が防ぐ方法を模索していた。『シティ』が行うだろう解決策は、地上の人間の事は全く考慮に入れられていないはずだった。『シティ』はその機動性を活かした解決策をとるだろう、とトルクは思った。だが、それは地上にいる人間にとっては解決策にはならない。 地上の人間には逃げ場がないのだから。 足下だけを見る限り、地上も『シティ』も大差ないように見える。確かな地面に足を着いているように思える。だが、地球は太陽の虜であり、『シティ』は地球に便乗している に過ぎない。『シティ』はいつだって地球という宇宙船から途中下車することができる。 ――どうすればいいの? トルクは椅子の上でうずくまった。冷たい風が通路を吹き抜けた。長く伸びた前髪が目に刺さった。トルクは杖に全体重をかけるような姿勢で、一人考え続けていた。 ――せめて、地上に独自に宇宙旅行できるほどの技術があれば……。 十分後、オルマティロッドが軽く振動して、トルクに面会時間が来たことを告げた。 トルクはドアを凝視する。だが、前の時間の面会者が出てくる様子はない。オルマティロッドは再び振動を始めた。 (早く入ってください、とのことです) 「面会時間みたいよ」 トルクは立ち上がる。あとに続いて二人が立ち上がった。トルクは首を回した。左右に伸びる通路はどこまでもまっすぐで、誰もいなかった。 扉の横に備え付けてある小型のセンサーに杖を近づける。だが、センサーが杖を認証できる位置より遙か手前で、ドアは音もなく開いた。続けて、『お入りください』という声が通路に響く。 トルク、ケシル、カイの順にドアをくぐる。 トルクは右手でしっかりと杖を握りしめ、左手でケシルの手をきつく握っていた。 相変わらず灰色だ、とトルクは思った。 最高権力者の部屋は三週間前と変わらず、灰色一色だった。整然とした部屋の執務机の前に、三つの丸椅子が置かれている。 市長は指先で机を叩きながら顔を上げた。 頬は窪み、白髪交じりの髪には艶がない。服装も何日も着替えていないように汚れているように見える。前と変わらないのは、眼光鋭い青色の瞳だけだ。 ――この市長をお母さんが見たら、どう思うんだろう? 八年ぶりに会ったときよりも、三週間ぶりに会った方が変わってしまっていた。お母さんが側にいればこんなぼろぼろにはなっていないのに、とトルクは思った。 市長が手を動かす。三人は勧められるままに椅子に座った。右からトルク、カイ、ケシルの順番だった。トルクはケシルから手を離した。 「トルク。無事に帰ってきてくれて良かった。君たち二人も、良くはるばる地上から来てくれた。『シティ』は来るものは拒まない。歓迎する」 市長は両腕を横に広げて、トルク達の事を交互に見やりながら言う。 「市長。俺たちは願いがあってここまでやって来た。最初に一つ聞きたいことがある。あなたは『十八年の一生』の事を知っているのか?」 「あんたは地上の現状のことを知っているのか? 僕たちがどういう生活をしているのか知っているのか?」 「市長、あなたは私を逮捕しようとしました。なぜいまさらここに呼びつけるのですか」 三人は口々に言った。市長は三人の言葉が一区切りすると、軽く微笑み両手を前に出して「待て」と言った。 「私は、天才でも何でもない。同時にいくつもの事を聞かれても返答に困るのだよ」 市長は左手を挙げ、右の壁を指さした。トルク達は指の先にある壁を見た。 壁は最初に見た灰色の壁ではなく、投影スクリーンに変わっている。、黒地に白い文字が、視認できないほどの速さで上から下へと流れていた。 市長はケシルの方へと指をずらした。 「最初の君の質問に答えよう。私は『十八年の一生』というものを知っている。このデータの羅列は、ウイルス『十八年の一生』そのものだ」 市長が空中で手を軽くひねると、スクリーンの光の乱舞は緩やかになった。トルクには、流れている文字が〇と一であることがわかった。 「じゃあ、あなたは、俺たちの『十八年の一生』を克服できるのか?」 市長は身を乗り出そうとしているケシルに向かって「待て」と言った。そしてカイの方へ指をずらす。 「次の君の質問だが、なんて答えればいいのかな? 地上のどの現状を知っていれば、知っているということになるのかね? ウイルス『十八年の一生』が、地上を席巻していることかね。それとも、十八年しか生きられないために、巨大産業が育たず、科学技術も発展せず、退廃的な文化がはびこっていることかね。私には地上の状況が届いている。十九年に一回、調査機を送っているからな」 カイは立ち上がった。眉がつり上がっている。 「じゃあ、何故、あんたは地上のことを放っておいたんだ。あんた達『シティ』なら、簡単に復興できるだろ?」 市長はカイに向かって「待て」と言い、トルクの方を指さした。 「トルク、私は君を逮捕しようとしたんじゃない。君を保護しようとしたんだ。君の論文は非常に正しいものだった。必死になって間違いを探させているが、未だにひとつも見つかっていない。残念ながら、『ヘリウムフラッシュ』は起こる。観測的証拠も得られた。今、私は極秘に生き残るための作戦を展開している」 そこで市長は小さく息を吐いた。その仕草は自分に似ている、とトルクは思った。 「君は逮捕されたと見せかけて、極秘プロジェクトに参加してもらうつもりだった。君がいなくなったことで作戦は少し遅れているが、それも、君が戻ってきたことで解決するだろう」 トルクは耳を疑った。目を丸くして市長を見る。市長は真っ直ぐにトルクを見ている。射すくめられそうになり、トルクは目をそらした。 ――私が逃げたのは、無駄な行為だったというの? トルクはゆっくりと首を回して、ケシルとカイの方を見た。二人とも身体を前のめりにして、市長が口を開くのを今か今かと待っているかのようだった。 トルクはため息をついた。父の人を操る手腕を認めざるを得なかった。情報を小出しにすることで軽い情報欠乏状態にさせ、自分の話を話しやすい状態を作っている。二百年以上の経験は伊達ではない。 外見はやつれていても、市長はやはり市長だった。 市長は机に両肘をつき、顎を手の甲にのせるいつもの姿で話を続けた。 「君たちが、私に様々な疑問をぶつけるのはよく分かる。君たちはこの『シティ』と地上との関係を知りたいのだろう?」 市長はそこで口をつぐみ、右手を持ち上げて手首をひねった。左側の数字の羅列が変化する。一瞬白くなってから、スクリーンが宇宙空間の映像を映し出した。 左中央には三日月に輝く青い星、地球があり、右方の奥まったところに太陽が輝いている。 中央に白い円盤が映っている。『シティ』だとトルクは即座に確信した。極端に平べったい円錐を上下を逆にしてくっつけたような形をしている。円の中心付近は出っ張っている。その場所にはトルクの見慣れない形の尖塔が多数つきだし、布のない傘のような形を作っていた。 「トルクは見てすぐ分かるだろうが、あれは『シティ』だ。君たち地上の人間が、二百年前の『大厄災』を起こしたと思っている『天使さま』の伝説は、この『シティ』の科学力の誤解された言い伝えにすぎない。『シティ』は間違いなく人類の手によって作られた、史上最高の科学技術の粋を集めた構造物だ。だが、『シティ』を構成する市民のレベルは、地上の人間とあまり大差はない」 市長は悲しげな目で三人を眺めた。 「従って、『シティ』は万能ではない」 スクリーンの見慣れない複雑な尖塔群の全体が緑色に輝きだし、緑色の傘の中心部から白色に近い光が放出された。光の放出は断続的だったが、『シティ』はゆっくりと連続的に動き出していた。 「この映像はシミュレーションだ。われわれ『シティ』は、このように、核パルス推進で被害を受けないところまで移動する。今のところ、候補地は冥王星軌道までだろう」 スクリーンの端へ『シティ』が消え去ると、画面の中心は太陽へ移動した。それとともにスクリーンの映像の縮尺が変化し、黄道面を真上から見下ろすような視点になる。水星、金星、地球、火星の軌道を示す四つの円が表示されていた。 トルクは杖を強く握りしめてその映像を見ていた。 太陽が心なしか大きくなったように見えた。一瞬膨らんだかと思うと、急激に縮まり、再び膨張した。それとともに、太陽を中心にして同心円状に青い輝線が広がっていった。 しばらくすると(この映像の時間間隔は表示されていなかった)、再び同じ事が起きた。 何度も何度も太陽は収斂を繰り返し、そのたびに、太陽は最初よりも大きくなる。同心円状の青い輝線は次々と何十本も放たれていった。 「こうやって収斂していく内に、五十パーセントの可能性で、太陽は最終的に地球軌道上にまで達する。すると……」 スクリーンの映像が再び切り替わった。ケシルが「うわ」と声を漏らした。 地球が画面一杯に広がっている。光を半分だけ浴びて輝いている。 しかし、その光り方は異様だった。 地球はすでに青と緑の惑星ではなかった。海があった場所には窪みがあるだけで、その星が地球だと分かるのは、やや他よりも膨らんでいる大陸の跡だけだった。美しい雲も、宇宙空間に映える緑もない。赤茶けていて、それは火星のようだった。 それは月のような、生物の住めない星だった。 大気はすでにないのか、大陸の輪郭がはっきりとしていた。 画面の左端から、真紅のラインが現れた。それが太陽のなれの果てだということはトルクは容易にわかった。すべてを押しのけるように、赤い波がゆっくりと地球の赤道地帯に近づいてくる。 ラインが触れる前に、赤道地帯が崩壊し始めた。それは力を入れすぎたクッキーのように、乾いて砕けるように崩壊している。 徐々に、真紅の長方形は画面を覆っていく。星の中央に大きなひびが現れ、瞬時に南北を縦断した。 スクリーンがすべて真紅に覆い尽くされると、映像は不意に途切れた。 「なんだこれはっ!」 カイが立ち上がり、執務机に拳を叩きつける。市長はその様子を無表情に眺めていた。 「見ての通りだ。これは『ヘリウムフラッシュ』と言って、本来なら五〇億年先の太陽の末期に起こるはずの現象だ。だが、これは一年後に起こる。青い同心円はプラズマや電磁放射であり、地球は最初から五回目の収斂により発生する青い同心円で、大気をすべてはぎ取られる。最後に物理的に消滅するのは、大気をはぎ取られてから一〇秒後だ。われわれ『シティ』以外にあるすべての動植物は、人間を含めてプラズマに分解されて太陽の一部となるだろう」 市長は指を真っ直ぐに伸ばし、立ち上がっているカイを指さした。トルクは市長の青い目が冷たく凍り付いているのを見た。 「これが解決策だよ」 そして市長はケシルを見る。両腕を広げ、笑った。その笑いはぞっとするものだった。 「もう、君たちは『十八年の一生』に悩まされることはない。地上の人間は死滅するのだから。われわれ『シティ』が何かしたところで、所詮一年で塵となってしまうのだ。われわれが地上に対して、何もする気がないのは当然だろう」 市長は再び微笑んだ。交互のカイとケシルを指さす。 「ここまでトルクを連れてきたお礼に、君たち二人には、ウイルスのワクチンと非老化処理を与えよう。それで満足だろう?」 市長は指を下ろし、机に肘をついて顎を手の甲の上に載せた。直ぐに無表情になる。 「面会は終わりだ。立ち去りたまえ。数十分後に、君たちの『シティ』加入手続きとワクチンの投与を行う。その時になったら、君たちの近くにいる職員が知らせるだろう。それまでは控え室にいるように」 カイは静かに市長の事を見下ろしていた。眉はつり上がり、拳はぶるぶると震えている。ケシルは目を丸くして市長を見ていた。 「トルクはここに残れ。話がある」 市長はトルクを見て言った。 「なめんじゃねえよ」 ケシルがゆっくりと立ち上がった。右手には、今まで常に携帯してきたナイフを持っている。トルクには、いつケシルがナイフを取り出したのかわからなかった。 「おまえは、いや、『シティ』は地上の人間を見捨てるのか」 「ああ」市長は微動だにせずに言う。 「おまえらだって、もともとは地上から来たんだろ?」 「ああ」 「じゃあ、なぜ努力しない? なぜそうも簡単に同じ人間を見捨てることができるんだ? 『シティ』に移住させるとか、いろいろな案はあるんだろ?」 ケシルは市長に向かってナイフを突きだして言った。ケシルと市長との距離は三メートルほどだった。 「ああ。だが、地上のすべての人間がこの『シティ』に乗れるわけではない。下手に人数を載せれば、市民の環境に支障が出る。私は市民の不利益になることはしない」 「人の命がかかってんだぞっ」カイが叫んだ。 カイが再び激しく机を叩いた。机は叩かれても全くびくともしていない。市長は両腕でケシルとカイを指さした。 「愚かな地上の人間は、『大厄災』で滅んでいるべきだった。滅ぶのがたった二百年ずれただけだろう」 「てめえっ」 ケシルとカイが、市長に向かって襲いかかった。ケシルはナイフをまっすぐ市長に向かってつきだし、カイはいつの間にかはめたシールドを全開にしたグローブで殴りかかった。 ナイフもグローブも、市長に届くことはなかった。 市長の目の前に青い半透明の壁が現れ、ケシルとカイの攻撃を跳ね返した。二人は勢いで後ろへ跳ね飛ばされ、鈍い音とともに後方の壁に激突した。ナイフが宙を舞い、堅い金属の床に音を立てて落ちた。 「ケシルっ! カイっ!」 トルクは立ち上がって二人の元へ駆け寄った。二人は頭を押さえてうずくまっている。 「大丈夫?」 「ああ」ケシルが頭を押さえて言う。 「ええ。僕は大丈夫」 二人はゆっくりとよろけながらも立ち上がった。トルクは二人に肩を貸して一緒に立ち上がる。そして市長を見据えた。市長は無表情に三人を見ている。 「父さん、やりすぎよ」 トルクは目の前に現れた青いシールドを指さして言った。 市長の目の前に現れたのは、攻撃を跳ね返すだけでなく、受けた衝撃を五倍にして返すという、権力者のみが使用できる対テロリスト用の超強力防御シールドだった。色が青に近いほど強力であることを示す。市長のは青そのものの色だった。 「トルク」 市長は静かな声で言う。 「実はこの二人を含む地上の者すべては、厳密に言うと『人間』ではない。『大厄災』は当時の生物のすべての遺伝子を変質させた。それは人間も例外ではない」 市長は立ち上がった。 「そんな生き物を、なぜわれわれ『シティ』が助ける必要がある? われわれは『人間』のことで手一杯だ」 市長はゆっくりと三人の方へ近づいてくる。ケシルとカイはよろけながらも、自由に使える方の手で構えた。 「二人には退出しろと言ったはずだ。私に対する無礼は今回だけは許そう。さっさとこの部屋から出ていきたまえ」 歩いてくる市長に向かって、カイは右フックを繰り出した。市長は軽く右によけ、カイの腕をつかんだ。 「離せっ」 ケシルが左足を市長の顎を蹴り上げようとした。市長はカイの右腕をつかんだまま、余った手でケシルの足をつかんだ。ケシルはバランスを崩し足を中心にして半回転する。 「眠れ」市長が言う。 トルクの肩が急に重くなったのを感じた。左右を見ると、ケシルとカイは膝を完全に折り曲げている。トルクの首にまわしていた二人の腕に、彼らの全体重がかかっていた。 トルクは二人の腕を肩から下ろす。二人とも完全に寝てしまっている。 市長とトルクの二人きりとなった。 市長はゆっくりとした足取りで席に戻った。 トルクはケシルとカイを壁に寄りかかるように寝かせ、最初に座っていた椅子に戻る。 「一体、いくつの法律を破っているのですか、お父さん。強制皮下注射なんて、もし、市民に対してだったら死刑ものです」 「今の方法しか、この人間たちをおとなしくさせる方法がなかった。遺伝子が変わってしまっていても、私個人としては彼らを人間だと思っている」 市長はシールドを消して悲しげに首を振った。そして直ぐに真面目な顔になる。 「トルク、私は常に自分の気持ちよりも、『シティ』全体の利益を優先してきた」 市長はそう言ってから、急に頭を抱え込んだ。 あたりの空気が変化した。張りつめていた緊張がほどけていた。 「私だって人間だ。社会は私のことを冷徹な管理者だと言うが、私だって人並みに苦しんだり悩んだりする」 机に突っ伏した市長の声は、くぐもって聞こえた。ただの苦しんでいる一人の男に見えた。市長の背中に、目には見えない何かが圧し掛かっている気がした。それは自分には計り知れない重みなのだろうとトルクは思った。 灰色の無機質な空間に染み出すように、市長の呟きは続いた。トルクは何も言わずにそれを聞いていた。 「『大厄災』の時から、私は進んで決断を下してきた。今まではずっと、自分の決断が正しいと信じてきた。だが最近、私がこの部屋から、この何もない部屋から、誰の顔も見ずにいたからこそ決断できたのかもしれないと思い始めた。この俗世とかけ離れた空間で、私は俗世のことを決断してきたんだと」 「お父さん……」 トルクは自分がどうしたらよいのか分からなくなっていた。両手は膝の上で衣服をつかみ、その衣服は手の汗でしっとりと濡れ始めている。 トルクの過去の市長のイメージが勝手に再生されていた。 幼い頃、自分を訪ねてくれたときの、自分という小さな存在をすべて包み込んでしまうような、優しくて、大きくて、威厳に満ちた父親の記憶。トルクの思い出の中では、市長は常に自信に満ち溢れたまなざしで自分のことを見つめていた。 万能な、何事にも屈服しないイメージ。 今、そんな自分のイメージとはかけ離れた市長という一人の人間が、自分という存在に向かって弱音を吐いている。 「私は、自分の下した決断が及ぼす影響をこの目で見ずにいたから、『シティ』に与える影響がもっとも好ましい決断を計算で選んできたから、ここまでやってこられたのかもしれない。だが、君が連れてきた二人の人間を見て、私が下した決断の影響を受けた人間をじかに見て、私は不安に駆られている」 市長はゆっくりと顔を上げた。その目はまっすぐに、懇願するようにトルクのほうを見ている。 「私にはもう、色を識別する自信がない。もう、黒か白か、灰色か、決断の責任を持つことができない。私の決断者としての能力はすでにない。トルク、君が決断してくれないか」 突然のことを言われて、トルクはとまどった。市長の真意を推し量ろうと市長の顔を見つめたが、市長はただ懇願するような顔つきでトルクを見ている。 ――私が、『決断』? ――なんてことを言うのだろう。 「お父さん、あなたはいつも正しかった。いつも私欲をはさまずに『シティ』のために決断してきた。あなたをそこまで不安にさせることは何なのですか」 トルクには理解ができなかった。 市長が決断に不安を持つということ自体が、信じられないことだった。一体、市長はあの二人に何を見たのだろう。トルクには皆目見当がつかなかった。 市長はぼんやりとした顔でトルクを見る。 「『十八年の一生』だよ」 「え?」 「私が『十八年の一生』の設計を命じた。私が『十八年の一生』を地上にばら撒き、地上の人間の発達を抑制したのだ。『シティ』の利益のために。地上は物資供給源としてのみ機能してくれたほうが効率がよかった。意見をいう存在は必要なかった」 市長は首を横に振って再び頭を抱えた。 「私はなんてことをしてしまったのだろう。地上に住む者だって、『シティ』に住まう者と同じ人間だというのに。自分は長く生き過ぎてしまっていて、早く死ぬという心境を考えることができなかったのだ……」 市長の声は消え入りそうな小ささだった。だが、静かな執務室では一語一区すべてトルクは聞き取れた。 「……許してくれ」 ――お父さんが、『十八年の一生』を? あなたが、地上の呪いを創り出したの? トルクは、金属加工屋のシュルツを思い出していた。『強襲兵団』のテツを思い出していた。他の多くの地上の人間を思い出していた。 運命と受け入れていた人たち。運命に抗おうとしていた人たち。 だがしかし、それはすべて、『運命』ではなく『作為』だったのだ。 すべてが、この目の前にいる人間により生み出されたものだというのだ。 「許せないよ」 頭を抱える市長の前まで歩み寄り、トルクは見下ろすようにして言った。 市長が顔を上げる。その目は焦点が定まっていない。 「他の『シティ』の人が許しても、私は許せない。私は地上で、父さんが創り出した呪いに苦しむ人を見てきた。それだけで辛いのに、父さんはここで再び地上を見捨てようとしている。どうして、どうしてそんなにも苦しんでいるなら、そんなにも罪の意識を感じているのなら、地上の人間を救おうとしないの?」 「……私は、市長だ。市長は『シティ』の安全を最優先しなければならない……。私だって、救えるのなら、地上の人間も救いたい。救って謝りたい。だが、私には『シティ』がある。私は私である前に、市長なのだ」 市長の目が急に鋭くなった。ぼんやりとした目から、何の予兆も無しで一瞬で切り替わっていた。事務的な調子の、いつもの市長に戻っていた。市長は右手で机の上にあったスレートを取り、トルクに手渡した。 スレートは紙のように軽い板状の物体で、上半分がディスプレイ、下半分が操作用のキーボードだった。 「という訳だ。私ができることには限界がある。私は二百年の歳月のうちに、脳細胞が固定されてしまったのだろう、『シティ』を最優先にする行動以外起こせそうにない。そこで、トルクにやってもらいたいのだ。そのスレートには、『シティ』が行おうとしている地球脱出作戦『スワン』の進行状況が逐一報告されてくる」 市長は両手を前へ差し出した。トルクの両腕を掴む。 「その作戦に支障のきたさない範囲で、地球の人間たちを救う方法を探してもらいたい」 トルクはスレートと市長を交互に見比べた。市長はいつものように無表情で、スレートは驚くほど軽かった。 「自分でやったらいいじゃないですか。この『シティ』であなたよりも権力をもっている人はいない。脳細胞がどうだか知りませんが、それは言い訳にすぎないと思います。本当に地球の人に詫びたいと思っているのなら、『シティ』の計画を変更してでもやるべきです。それに……」 トルクは目をそらす。 「それに、何だ?」 市長は事務的な詰問口調で言う。 「……何で私なんですか?」 トルクは再び市長を見た。まともに市長の瞳を見続けることができなかった。ずっと見ていると、何もかも操られてしまうような恐怖を感じたからだった。 「こういうことは、みんなで力をあわせてやるべきだと思います。私一人では解決策は思い浮かびません」 「これは市長命令だ。市民強制法を適用されたくなかったら、命令を迅速に処理しろ」 市長は手元の機器を右手で操作した。すると、トルクが無意識に握りしめていたオルマティロッドがいななくように震えた。 「これで、私の直属命令以外に拘束されることはなくなった。君の行動は、すべて超法規的に処理できる。君たち三人の部屋を、この市政庁に用意しておいた。場所はオルマティロッドが教えてくれる。これで用件は終わりだ。退出しなさい、トルク」 「ちょっと、私の質問に答えてよっ」 トルクは市長のほうへ手を伸ばした。市長の肩をつかむ前に青白い火花が散る。空間には青いシールドが現れていた。 「退出しなさい、トルク」 トルクは一歩下がり、左手に持ったオルマティロッドを上に掲げ、上で水平に回転させた。両手で回転速度を上げていく。 「退出しなさい、トルク」 市長がみたび言う。 (オルマティロッド、シールド機構全開) (了解しました) 杖の先から緑色のカーテンがゆっくりと展開されていく。カーテンは回転に沿ってまとわりつき、杖は緑色に変化した。 「いつも、いつも、自分勝手で、私のことなんて、これっぽっちも、考えてくれていない。いつも、『シティ』のことしか、考えていない。あの時もそうだ。あの時だって、私を置いて出て行った」 ――あの時。八年前。お父さんが私のところへ訪問した時。 満足に話すこともなく、連絡もなく、勝手に来て勝手に帰った。十分だけトルクと会い、トルクの母親に会わないで去っていった。トルクはずっと待っていた。すぐにお父さんが戻ってくると思っていた。お母さんと会わないなんておかしいと思いながら、絶対に来るはずだと、トルクはシティの灰色の回廊で市長の姿が出てくるのを待った。 満足に空調施設が作動しない最外層区域で、体を寒さで震わせながら。 次の日、『シティ』の緊急の執務が入ったから満足に会えなかったということを、他の人から聞かされた。 ――本人は直接には何も言ってこなかった。 「たまには、自分のやりたいことをやったらどうなの。『シティ』以外にも重要なことはたくさんあるのに、どうして、お父さんはそのことがわからないのっ」 回転力をつけて、トルクは市長の防御シールドに向けて杖を薙いだ。 青白い半透明の壁は、いとも簡単に杖をはじいた。衝撃を五倍にして返され、杖はトルクの手から離れて回転しながら後方の壁に衝突した。トルクも杖ほどではないが吹っ飛んだ。 後頭部への強烈な衝撃とともに、トルクの目の前が真っ暗になった。 |
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