二、未知との遭遇
| 「おなか、すいた」 トルクはお腹を押さえながら目を覚ました。半覚醒状態で、寝ころんだまま頭上に手を伸ばす。 手が空中を泳ぐ。オルマティロッドの金属の感触はなかった。全身の力が抜けきった状態でのそりと起きあがる。杖はやはりそこにはない。何か緑色の壁がそこにあるだけだった。 そこでトルクは、ようやく自分の置かれている状況を認識しだした。焦点の合っていなかった目がはっきりとしてくる。 いつもひっきりなしに聞こえてくる『シティ』の騒音が聞こえない。背中が痛い。いつもはベッドに寝ているのに、今は床に寝ていた。 トルクは強く目を擦った。頭を手で押さえて、辺りを見回す。 部屋の縁が丸くなっている。トルクはここが自分の部屋ではないことを認識した。自分の部屋であれば、部屋は無機質な立方体なはずであり、縁が丸いということはありえなかったからだ。トルクは上を見上げた。 目線の先には、いつもの飾り気のない平らな灰色の天井ではなく、中心が一番高い三角錐状だった。 ――どうやら、円錐状の部屋にいるみたい。 さらに辺りを見回す。壁は全体的に緑色だった。所々に色落ちが見られ、上部には小さな穴が空いているらしく光が細長く射し込んできていた。天井の中心からは金具が降り、そこにはランタンのような照明装置が引っかかっている。 トルクはその部屋の中心に、薄い毛布を掛けられて寝かされていた。 毛布をはぎ取り部屋の隅に放り、トルクは中心に立ってみた。ランタンがトルクの頭の真上に来る。トルクの予想通りに部屋は狭かった。トルクはこれがテントだと推測した。 そこでトルクは新しいことに気づいた。 奇妙な服を着せられていた。 ゆったりとした真っ白な上着に、赤いひだひだのついたスカート。小さい頃に、どこかで見たような服だった。どこで見たのかは思い出せない。トルクは一度たりともこのような服を着たことがなかった。こういう服を着た人を見かけた覚えもない。 ――けれど、どこかで見たことがあるのは確かなんだけど……。 「寝てなくていいのか?」 突然、男の声が聞こえた。トルクは入り口を見る。入り口の布をめくり上げて、見知らぬ男が顔を出していた。黒い髪の若者だった。トルクは後じさった。後ろに下がりすぎてテントが傾ぐ。 「あなた、誰? ここはどこ? 私はどうなってるの? 杖は? オルマティロッドをどこへやったの? それに、この服は何? 私の着ていた服は?」 ――こいつは誰? 私はなぜここにいるの? 「まあまあ、落ち着いて。そんなに後ろに下がったらテント壊れるからさ」 男は布を押し上げてテントの中に入ってくる。 「来ないで」 トルクは低い声で言った。それと同時に、目は男を撃退できるものを探してテント中を動き回った。だが、ランタンと毛布以外には何もなかった。トルクはランタンを両手で掴んだ。金具からランタンを取り外そうとしたが、上下左右に動かしても取れない。 膝を付いたまま、男は緩慢な動作で両手を挙げた。手をひらひらと動かしている。 「警戒するのはよくわかる。けど、俺にとりあえず説明させてくれないか」 男は微笑みながら「外で話そう」と言った。 「――というわけだ。その次の日の朝早く市までまで行って、この三人用のテントを買ってきたんだ。別に二人用でも良かったんだけど、なんか、こう、二人用は狭いから。それに、市の奴らに変な疑いでもかけられたら、二人とも困るから、な」 たき火の炎の前で、男が微笑む。トルクは男の向かいの丸太に座っていた。火の粉が二人の間を舞っている。 トルクは男の背後に展開される景色を眺めていた。どこを見ても緑しかない光景にトルクは圧倒されていた。地平線で大地の緑と空の青が入り交じっている。壮大すぎる光景にトルクは自分の肺が縮み上がっている心境だった。 ――地平線! あれは夢じゃなかったんだ。 「話、聞いてるか? なんかまわりの景色ばかり見ているようだけど。別に見るものなんてないってのに」 ――ここは地球なんだ……。 「口、開いてるぞ」 男の声にトルクは我に返る。慌てて口を閉じて男を見る。 髪の色は黒。肌は極端に黒いわけでも白いわけでもない。顔つきはアジア系のようだ。一見して印象に残るような特徴はない。体格は、筋肉隆々でもなければ、太っているわけでも、痩せているわけでもない。長袖のシャツの前ははだけ、Tシャツが中から覗いている。いわゆる『普通の人』だとトルクは思った。歳は自分と同じくらいだろうとトルクは推測した。 「ところで、私の着ていた服はどうなったの」 テントを見回したときにもトルクは自分の服を見つけることができなかった。外へ出てきても、どこにも服はない。 ――白衣は別に無くなったっていいんだけど、その下に着ていたワンピースは、小さなアクセサリとか付けてお気に入りだったんだけど。 トルクは首から下げた十字架を握る。『シティ』にいたときに身につけていたものはこの十字架のネックレスだけだった。 トルクは、それが大昔の何処かの世界宗教の信者が、信仰対象として身につけていたものだということを知っていた。だが、トルクにとって大昔のことはどうでもよかった。ただかわいいから身につけているだけで、深い意味はない。 十字架は角張っていて、握りしめると少し肌が痛かった。 「あちこちが破けていて、とても着られる状態じゃなかった。知り合いの女が、君が着ていた服は珍しいから自分のと交換してくれと言い出して、ちょうどいいと思って、それで彼女の持っていた服と交換してもらったんだ。気に入らなかったか?」 男がトルクの服を指さして言う。 「別に気に入らない訳じゃないけど、やっぱり自分の服の方がいいわ。まあ、破れてしまったのなら仕方がないけど」 ――生命維持フィールドは大気圏の突入を意識して設定されている訳じゃないし、防御シールドだって、地面との衝突を意識して設定されている訳じゃないし。 「今ここに私が生きていられるというだけで良しと思うことにするよ」 トルクは空を見上げた。空は高く、どこまでも青く広がっていた。所々に筋状の雲があり、大小様々な雲が地平線近くに整列している。 適度に湿った心地よい風がトルクの頬を撫でた。草の香りが辺り全体を包み込んでいる。 ――そういえば。 トルクは顔を男に向けた。 「着替えって、もしかしてあなたが?」 男の顔が赤くなった。 「そ、そんなわけはない。服を交換した例の知り合いの女にやらせた」 男は両手を目の前で激しく振り、首も同じように激しく横に振って答えた。それを見てトルクは微笑む。 ――『大厄災』でめちゃめちゃになって、野蛮な状態に逆戻りしていると聞いていたけど、どこにでも居そうな若者がいる普通の場所じゃない。 「あなたがいい人でよかった」 トルクは両手を挙げ、背伸びをした。椅子として使っている丸太が軽く回ってバランスを崩した。両手をくるくると回し、トルクは体勢を立て直す。 男は真面目な顔つきでトルクを見ていた。 「君がどういうところから来たかは知らないが、もう少し他人に警戒心を持った方がいい。たまたま俺の所に落ちてきたからいいけど、もし違うところに落ちていたら今頃どうなっていたか。君は十六年近く生きているのだろう? それだけ生き延びてこられたのだからわかるはずだ。多分、君は目を覚まさないまま死んでいただろう」 男は自分の手元にあるリュックからビニール袋を取り出した。袋を雑に破って中身をトルクに手渡した。トルクは受け取ってそれを眺めた。 茶色くて四角く、柔らかい固形物。 男はもう一つリュックから取り出し、袋を破ってかじりついた。 「一週間も寝ていたんだから腹減ってるんだろ。食べな。君のおかげで俺はテントにあったものを殆ど失ってしまったが、幸いコインだけは燃えずに残ったから食べるには困らない」 トルクは手のひらの上にあるそれをつまんでみた。強くつまむと粉々になりそうだった。 「遠慮しなくていい」 トルクは恐る恐るそれを口に入れた。ぱさぱさとしていたが、それは間違いなく食べ物だった。口の中に甘さが広がった。 二人とも、何も喋らずに菓子を食べていた。一つ一つを、男は二口で食べ、トルクは何度も何度も手で折って食べた。 快い風が草をなびかせ、太陽が柔らかな日差しを大地に与えている。ときおり火の中で木が爆ぜ、音を立てた。二人が菓子をかじる音が響き続けた。 数分が経ち、すべてを食べ終わったトルクが先に口を開いた。 「あのさ」 「なんだ」男が口に菓子をほおばりながら聞き返す。 「二人とも、まだ自己紹介していないよね」 「そうだな」 男は口に菓子をくわえながら、袋をくしゃくしゃに丸めて炎の中に投げ入れた。炎の中で袋は溶けて縮んでいく。 「俺の名はケシル・マルサール。ケシルでいい。機械の修理屋をやってる。こんな世界だから、動いている機械よりも壊れている機械の方が何十倍も数が多いからな。生活には困らない。あと一年、崖っぷちの十七才」 男は『あと一年』を強調して言った。その強調が何を意味するのかはトルクには分からなかった。 ――機械の修理屋ね……。機械……。 「あっ」 トルクは立ち上がった。座っていた丸太が大きく後ろへと回転した。ケシルは口にくわえていた食べ物を地面に落とした。彼は地面に落ちた食べ物を広い、土を払って再び口の中に入れた。それからトルクを見上げる。 「私のオルマティロッドは? 細長くて、黄色い色をしていて、矢印みたいなのが先端に巻き付いているやつ」 周りにはたき火とテントとリュックしかなかった。あとは黒こげのなんだか分からない残骸が転がっているだけだった。トルクは残骸がひときわ大きく積み上がっている場所に歩み寄り、手を入れた。煤が飛び、腕が真っ黒に汚れていく。服や腕が汚れてもトルクは構わなかった。服は自分のものでは無いとはいえ、オルマティロッドとは比べられないものだった。 手が金属の感触に突き当たる。トルクはそれを掴んで取り出した。杖ではなく、ただの黒い飯ごうだった。トルクは肩を落としながら、後方にそれを放り投げた。 探している横目でケシルのことをちらりと見ると、彼は穏やかな顔つきでトルクの様子を眺めていた。口をもぐもぐと動かしている。 「先の部分が、菱形になっているやつのことか?」 トルクは手の動きを止め、ケシルの方を向く。 「そうそう」 「売った」 「売った?」 ケシルはぼんやりとトルクを見つめている。トルクは残骸の中から手を引っこ抜き、立ち上がった。ゆっくりとたき火に歩み寄る。丸太を蹴飛ばし元の位置に戻してから腰を下ろした。息を深く吐いて、ケシルを見据える。 「もう一度言ってみて」 「売った。大切なものだったのか? ただの金属の棒にしか見えなかったから、市の金属加工屋にテントと取り替えてもらったんだ」 ケシルは親指でテントを指さしながら言う。トルクはただ真っ直ぐにケシルを見つめた。 「人のものを勝手に売っていいと思っているの?」 トルクは冷たい声で言った。そこでケシルはトルクが非難の目つきしていることに気づいたらしい。目を丸くし、そのあとに胸の前で手を合わせ、頭を下げた。 「ごめんっ。見たところ怪我はないようだし、歩くのに支障があるようには見えなかったから、いらないと……」 「いらないなら、勝手に売っていいと思っているの?」 トルクはケシルの言葉を遮って言った。ケシルは上目遣いにトルクを見ている。 「服については何も言わなかった……」 「それところとは重要度が違う。売っていいものと悪いものがあるんだから。あなたは、人が寝ていれば何をしてもいいと思っているの? 罪悪感というものがないの?」 トルクがそう言うと、ケシルの目つきが変わった。ケシルは立ち上がり、トルクを見下ろした。負けずにトルクも立ち上がった。だが、ケシルの方が背が高く、結局ケシルの顔を見るには見上げなければならなかった。 「そう思っている訳じゃない。それに、このテントがなかったら、君は寝るところがなかったんだ。草むらに直に寝ころんで猛獣にでも襲われたら大変じゃないか」 猛獣、という言葉を聞いてトルクは目を丸くした。猛獣というのはトルクは文献でしか知らなかった。『シティ』には人間に害を為す動物がいなかったからだ。 「も、猛獣がいるの?」 「ああ、『大厄災』の時の放射能で突然変異したやつが、この辺りにはうようよいる。体長五メートルのキングスタイガーとかな」 トルクの心に動揺が生じた。トルクは動物の類が嫌いだった。犬でも猫でも、人間以外の動物が大嫌いだった。身体中に毛が生えている生き物を見ると寒気が走ってしまう。 ――確かに、猛獣がいるんじゃ、テントは必要なのかも。 「だから、俺があれを売ったのは正しい判断だったんだ」 腰に手首を当てて、ケシルは自信たっぷりに言った。口に菓子をくわえているのが滑稽に見えた。 トルクは大きく首を横に振る。首の動きと共に胸の前で十字架が踊った。 「それは間違ってる。やっぱり人のものを売るのはよくない。開き直らないでよ」 トルクが言い返すと、ケシルはしゃがみ込んでリュックを手に取った。ものすごい勢いでリュックの中に手を突っ込み、すぐに引き出す。 ケシルの手にはサバイバルナイフが握られていた。陽光がナイフの先端で煌めいた。まぶしさでトルクは一瞬目をつぶる。 目を開いたときには、ケシルはトルクの目の前にいなかった。トルクが首を回そうとすると、首筋に冷たいものが触れた。ケシルがナイフを近づけていた。 「この草原、少なくとも半径二キロには誰もいない」 ケシルは耳元でささやいた。彼の息がトルクのうなじにかかる。 「俺と君しかいないんだ。そして武器を持っているのは俺。君は何されても文句が言えない立場なんだけど、分かるかな」 トルクの背中を冷や汗が伝い下りた。抵抗しようにも動けなかった。ナイフの氷のように冷たい感触が肌にある。突然の出来事に息が止まり、苦しかった。指一本動かすことができず、全身が金縛りにあったようになっていた。太陽の暖かな日差しも、金縛りを特手助けにはならなかった。 トルクは目だけを動かして、ケシルを見る。 「私を、どうする気?」 トルクはたき火の音でかき消されるくらいの小さな声を絞り出した。 「どうすると思う? 寝ている時に何もしなかったのは、起きているときに何かしたかったからかもな……」 ケシルの息がトルクの耳にかかる。生暖かくて気持ち悪く感じた。 たき火の燃える音と共に、どこか遠くで虫が鳴く音が聞こえた。 張りつめた空気と肌に触れるナイフの感触、音と感触が一つの感覚にまとまっていく。身体中の全ての器官が金縛りにかかり、声すらも封じ込められようとしていた。 ――ど、どうするの? その問いは声にならなかった。 トルクはケシルの次の行動を待つしかできなかった。 「いっせいのぉ」 ケシルの声が聞こえた。耳元でささやかれた筈の声は、トルクには非常に遠いところからの声に感じられた。たき火の音も虫の音も消え、時間が凍り付いた。 「でっ」 トルクは目をつぶった。すべての感覚を絶って、何かが起こるのを待った。 ずさ。 遠くの草むらでものが落ちる音がした。肌からナイフの感触が消えていた。凍り付いた時間が動き出していた。 目を開き、ゆっくりと振り返る。そこにはすでにケシルの姿はない。 「ジョーダン、冗談だって。俺はそう言うことをする類の人間じゃない」 トルクは前を向いた。ケシルは向かいの丸太に座っていた。ケシルは笑って続けた。 「君に警告しただけだ。君は自分の安全についての認識が無さすぎる。人を見た目で判断しちゃいけない。俺だってこのくらいのことはできるよ。護身術の一つや二つ覚えていなけりゃ、この地で独りで十七年も生きていられないからな。君がどこのコミュニティから来たかは知らないが、この辺りのコミュニティでは警戒心の無さは致命的だよ。俺じゃなかったら、騙されて殺されていたと思った方がいい。それと――」 ケシルは視線を移動させた。トルクはその視線の先を見た。視線は草むらの一点を指しているように思われた。 「あのナイフ、超音波ナイフだから布よりも硬い物は切れないよ。はったりだよ」 トルクは肩の力が抜けた。身体中に強烈な脱力感が流れ込んでいた。 ――はあ、何なの? こいつ……。 トルクは、流れを自分の意志では止められそうになかった。脱力感と共に、トルクを目覚めさせた原因となった空腹感が襲ってきた。空腹感を我慢する理由は見あたらなかった。 トルクは手を大きく伸ばし、ケシルのリュックを取った。リュックの中に無造作に手を突っ込み、袋を取り出す。大ざっぱに袋の口を開けて、自らも口を開けた。そのまま菓子を自分の口へと流し込み、一気に飲み込んだ。 ばさばさとした感触が喉を通り抜ける。 その様子をケシルは微笑みながら眺めている。その表情がトルクには憎らしかった。 「私、あなたのことがよく分からない」 口の中の菓子をすべて喉に送り込んでからトルクは言った。 「この年齢になれば、みんな少しは頭がいかれてくるんだ。わからなくてもっともだよ」 ケシルは立ち上がり、トルクの足下に転がる菓子の袋を拾って逆さまにした。袋からは何も出てこなかった。 「そういえば、君の自己紹介をまだ聞いていなかったな。良かったら、なぜ流れ星のように空から落ちてきたかも教えてくれないか。どこのコミュニティが空を飛ぶ技術を復活させたか気になるし。そのあとに、市に行こう。多分、その杖は売れずに残っているだろうから、このテントと交換してくれるだろう」 ケシルはまた微笑んでいる。 ――彼はもしかしたら、信頼できるのかもしれない。なんだかんだ言って、私のことを介抱してくれたわけだし、結局はいい人のような気がする。見た目だけでは判断してはいけないということを身をもって体験させてくれたと考えれば先ほどの行動も一応納得がいくかも。 トルクはあごに手をやって考えた。 ――武器もない。場所も分からない。オルマティロッドがない。そう、何よりオルマティロッドを取り返さなければどうしようもない。 大きく息を吐いて、トルクは小さく頷いた。ケシルを真っ直ぐに見据える。 「私の名前は、トルク・エル・カミューラル。トルクでいいわ。私は静止衛星軌道上にある『シティ』から落ちてきたの……」 ケシルの顔が、驚愕の表情へと変化していくのが見て取れた。畏怖さえも混じっているように見える。トルクはそれがこの上なく楽しかった。 |
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