蒼天の星

プロローグ




 トルクは壁と床のさかい目を凝視していた。
 さかい目ははっきりとした直線で、塵一つ見られない。その直線は目に見える限りどこまでも左右に伸びていた。
 トルクは顔を上げた。肩の上に寄りかかった大きな杖がかすかに傾きを増し、服越しにこすれた。
 執務室の前の通路は薄暗く、壁も床も同じ微弱な青い光が当たっている。床は金属的で、長いすに座っているトルクや他の人たちをぼんやりと映していた。
 長いすには様々な人間がいる。白髪でくたびれた背広を着た男は顎に手を当てながら目をつぶっており、ダブルスーツを着た長髪の女性は膝の上で小型端末をいじっている。十人ほどの人間が思い思いの姿勢で長いすに座っていた。
 そこにいるすべての人間に共通することは、人間の背丈を越える杖を自分の隣に立てかけていることだった。どの杖も金属光沢を持ち、通路の青白い光を鋭く反射している。
 トルクは、長いすの一番端に座っていた。
 物憂げに、垂れた前髪を揺らして首を左右に振る。トルクの視界の中で、彼女の青い前髪が跳ねるように踊った。
 左前方には扉がある。装飾のないのっぺりとした扉で、上部には『執務室』と書かれた金属プレートが貼り付けられている。
 トルクは杖を両手で強く握った。杖はトルクの汗で濡れ、通路をそよぐかすかな冷たい風によって冷やされている。トルクは前のめりの格好で身震いした。
 身震いしながら横目で隣の男を見る。隣の男は、全身を黒いスーツで身を固めて目をつぶっている。スーツは襟首まできちんと男の肌を保護しているようにトルクには思えた。目を下に移し、自分が着ているみすぼらしい白衣を見て、トルクはふうっと息を吐く。生地が毛羽立ち、どうしても取れないシミもある。白衣の下にはワンピースを着ていているが、母親に「市長に会いに行くなら白衣を着ていきなさい」と言われていた。
 トルクがここに来るのは初めてだった。
 ここは『シティ』の政治的中心部であり、本来トルクのような苦学生が来る場所ではない。ここに来る人間のほとんどは内層部中流市民だ。執務室と書かれたドアの向こうにいる市長に、自分たちの現状をよりよくする提案をするためにやってきている。それは彼らの横に立てかけられている杖の様子を見ればすぐにわかることだった。杖の先には複雑な意匠が凝らされ、その精緻さがステータスシンボルになっている。
 トルクの杖には飾りがない。
 トルクは隣の男の杖の先を眺めた。鳥が大きな翼を広げた意匠だった。通路を照らす青い光を羽の内部で複雑に反射させ、鳥はぼんやりと光を放っている。
――私なら、杖にお金をかけるくらいなら衣食住を充実させるわ。
 トルクはもう一度ふうと息を吐く。目を扉に向けて、早く開いてほしいと思った。

 十分後、肩に心地よい振動がおとずれた。トルクの杖が振動していた。振動は床を伝わり、周囲の静寂をやんわりと破る。
 汎用性多機能用具という正式名称があるが、杖は『オルマティロッド』と呼ばれている。『シティ』の住人は携行が義務づけられ、政府が供給できるすべてのサービスがこれを通して行われる。
 扉が音もなくスライドした。先端がかぎ爪状になった杖を持つ青年が、くたびれた顔で出てきた。青年の背中は杖の先のように丸まっている。トルク達に一度も視線を向けずに。ふらふらとした足取りで通路の暗闇に消えていった。
 扉はすでに閉じられている。
 トルクは顔を上げて、瞳にかかった髪を手で払う。ぐっと杖を握りしめて立ち上がった。
 執務室に来るのは初めてでも、市長に会うのは二度目だった。八年前に、トルクがまだ小さな子供だった時に出会っている。外層部を視察に訪れた市長の記憶は、闇の中に埋もれずに残っていた。
――八年という歳月は私を大きく変えたけれども、市長をどのくらい変えたのだろう? 市長にとって私はまだ特別なのだろうか。
 トルクは二度目の杖の振動で我に返った。振り返ると、隣の男がいぶかしげにトルクをにらんでいた。
 オルマティロッドを片手に持って、杖の先端部を扉の横に備え付けられた四角いセンサーに近づける。
『認識しました。面会時間は一二分です。どうぞお入りください』
 扉が再び開いた。扉からすぐに執務室の中が見えるわけではなく、開かれた扉の先には周囲の壁と同じ色の壁がある。
 トルクは、長いすに座っている他の人たちに会釈をしてから扉をくぐった。
 扉を抜けてから二回ほど通路を曲がると、そこに広い空間が開けた。トルクは入り口で立ち止まった。杖を握る手に自然と力が入る。
 市長は極めて整然とした灰色の事務机に両肘をついて座っている。
 八年ぶりに再会した市長は何も変わっていなかった。黒い髪に、アクセントのような前髪の白。組まれた手は健康的で、つやすらもあった。それは八年前と全く同じだった。
 鋭く射抜くような青い瞳がトルクを見ている。
 事務机の前には丸椅子が置かれてある。市長は手でトルクに座るよう合図した。トルクは歩み寄り、杖を肩に立てかけて腰を下ろした。
 市長の背後の壁には、『シティ』のシンボルである、白鳥の群れの飛行の様子が描かれた絵が飾られている。
「大きくなったな、トルク」
 トルクの瞳をのぞき込むように、市長はよく響く低音の声で言った。トルクの腹部に響くような声は、八年前と全く変わっていなかった。
「お元気そうで何よりです、お父さん」
 挨拶をしながら、トルクは市長の顔を凝視していた。八年前と変わった箇所を探すことは不可能に思えた。全く風貌が変わっておらず、ただ畏敬の念を抱いていた八年前に自分が逆戻りしてしまったかのような錯覚すら覚えた。すべてを委ねて、ただ抱き上げてもらう事に満足感を得ていた小さな頃はもう遙か昔だということを、絶えず意識していないと顔が緩み出しそうだった。
 言わなければならないことを必死に頭の中で反芻する。肩に乗せたオルマティロッドを膝の上に置き直し、きつく握りしめる。一度目が痛くなるくらいぎゅっと目をつぶり、逆行催眠術を行えそうな市長の目を視界から消した。
 軽く頷いてから目を開く。
「ご検討、なされたでしょうか」
 市長はトルクの目を見る。目をそらしてしまわないようにするには意志の力を必要とした。
「ああ、論文は読んだよ。ざっとだがね。専門家にも検討させた。読ませた全員が同じ意見だった」
 市長はにこやかに笑って言う。その笑いを見てトルクは身体を硬くした。笑いというのが必ずしも善意で見せるものではないことをトルクはよく知っていた。相手はトルクよりも何十倍も歳を取った策士であり、二百年間もの長い間『シティ』の市長の座に居続けている政治家だということもよく知っている。そのような人間は、感情を素直に表に出すという愚かな事をしないこともよく知っていた。
 それでも、トルクは笑みを肯定的に解釈した。父にとって自分が特別だと信じたかったからだ。それに、提出した論文にも自信があった。
 トルクは市長を見つめる。市長は笑みを崩さない。深読みしたくなる気持ちを抑え、トルクはぎこちなく笑みを返した。つばを飲み込み、大きく口を開ける。
「観測の時期、については、問題の性質上、なるべく早くしてもらいたいのですが。早ければ早いほど、ヘリウムフラッシュ、の時期の、正確な予測が、可能になります」
 言葉が突っかかり、トルクは赤面した。訪問前に何度も何度も繰り返した言葉だというのに、本番には滑らかに出てこなかった。
 トルクはうつむき、上目遣いに市長を見る。
 市長の表情は変化していなかった。依然として笑みを崩していない。服の中で、汗がトルクの身体を伝い下りていく。市長の青い瞳を見ていられなくなり、トルクは目をそらした。
 突然市長は両手を挙げ、首を横に振った。
「トルク、君は昔と変わらず思いこみが激しいらしいな。桜の花を梅の花だと頑なに言い張っていた八年前が懐かしいよ」
 市長の両手は降りていき、再び机の上で組まれた。
「君は勘違いしているようだ。専門家は君の論文を、全員一致で意味の為さないものと結論した。科学技術顧問のラザフォード君曰わく、『太陽内部におけるマイクロブラックホールの周期的摂動による、内部水素核融合の不安定化はあり得ない。そもそも、太陽ニュートリノの減少の疑問を、太陽内のマイクロブラックホールの存在を仮定することによって解決することに無理がある』そうだ。彼の君の論文に対する詳しい検討はここにある。君のオルマティロッドに転送する。読んでみなさい」
 市長は手首を動かした。それと共にトルクの杖が振動する。トルクはぼんやりと市長の顔を眺めた。杖の振動を止めることも忘れ、ただ市長の白髪を見つめた。
「君の論文はでたらめだ、と言ったんだ」
 白髪が、黒髪の上でふわふわと揺れている。
 市長の顔は笑っていなかった。鋭くトルクを見つめていた。それはトルクが映像で見る市長の表情と同じで、市民に対して問いかけるときの市長の顔だった。
 トルクは大きく首を横に振る。杖を握り直し、再び市長の顔を見た。
 市長は眼光鋭くただトルクを眺めていた。
――私の論文がでたらめのはずはないわ。検討する方が間違ったに決まっている。
 息を大きく吐き、小さく横に首を振る。呼吸を整えてから、トルクはオルマティロッドに転送されたラザフォードの検討内容を腕時計のディスプレイに表示させた。時計の画面は文字で埋め尽くされ、側面のボタンでスクロールを行う。
 トルクはしばしラザフォードの検討内容を読むのに集中した。
 読み進むにつれて、トルクは自分の身体が震え始めている事を感じた。杖を握りしめる両手に力が入る。
 腕時計から顔を上げ、トルクは真っ直ぐに市長を見据えた。
「お父さん、もっとちゃんとした人間にこの論文を読ませてください。この検討内容が指摘してある矛盾点は、全て説明できることです。とても専門家が書いた物とは思えません。太陽ニュートリノどころか、ニュートリノが何であるかも分かっていない人間が書いたに決まっています」
 トルクは語気を荒げて言った。トルクの声は反響せずに壁に吸い込まれていった。
「そんなことはない。ラザフォード君はニュートリノ天文学の権威だ。そのくらい君も知っているだろう?」
「知ってますが、この矛盾点の挙げ方は、詳しい人が書いたとは思えません。きっとラザフォードさんではない誰かが勝手に書いたに決まっています……」
 市長は片手を挙げてトルクの言葉を遮った。
「素人の私が読んでも、君の論文の予想する事態はあり得ないことだと分かる。誰だって、最外層住民の子どもだって、太陽はあと五十億年の寿命を持っていることを知っている。太陽が爆発するなんて戯れ言のために、『シティ』に一つしかない多目的電波研究施設を使わせるわけにはいかない。あそこはいろいろと有意義な研究を行う施設なのだ」
 市長は机に視線を落とした。
「残念だが、これで君との面会時間は終わりのようだ。退出したまえ」
 トルクには、市長の目に憐れみが浮んでいるように見えた。トルクは立ち上がり、オルマティロッドを縦に持った。杖の下端が床にぶつかり、鋭い音をたてる。
――誰も私のことを信じてくれない。誰も疑いもしなかったことだからこそ、観測して確かめることが重要なのに。
 市長は机の上を見ている。指先にペンを挟み、くるくると回している。自分の周りに誰もいないかのような仕草だった。
 トルクは机に歩み寄り、上から大きく机を叩いた。乾いた音が鳴り響く。
 だが、机はびくともせず、市長は眉一つ上げない。
「お父さん、私の論文が本当に間違っているかどうかは観測すれば分かります。太陽内部にセルシウス効果が見られるかどうかを調べればいいだけです。セルシウス効果というのは、私が名付けたものですが、周期的に局所的な温度変化のことであり……」
「もう面会時間は終わったんだが」
「三時間、いえ、一時間使わせてもらえばいいのです」
 市長は顔を上げた。温度のない瞳でトルクを見つめる。
「それ以上私の命令を聞かないのなら、市民強制法を適用する」
「う……」
 市民強制法とは、公務の遂行に際し市民が妨げになっている場合に市長が適用できる法律だった。通常は様々な法的手続きを行わないと適用できないのだが、執務室の中でだけは特例的に無条件の適用が認められている。適用された市民はしばらくの間公共のサービスの限定を受ける。あらゆる公的援助を打ち切られてしまう。大学の奨学金を打ち切られることはトルクには耐え難かった。
 トルクはゆっくりと机から手を離した。
「失礼しました」
 市長に背を向けてトルクは歩き出す。手のひらはじんわりと赤くなっていた。

「わかってない。わかってない。お父さんのバカ。何も分かっていない。もし私の予想が当たっていたら、二百年前のあれよりも非道いことになるのに……」
 トルクは誰もいない『シティ』の回廊で独り言を言いながら、自分の家へと歩いて向かっていた。右足を降ろすたびに杖の後端を床に突きつけ、そのたびに金属的な鋭い音が誰もいない回廊内で反響した。
 トルクの家は貧しいため、『シティ』の外周部の最大遠心力がかかる地域にあった。そこでは地球標準重力と同じ一Gの疑似重力がかかっている。執務室のある〇.五G区画の二倍の遠心力がかかっているということだった。
 回廊が行き止まりになり、その先には上下にどこまでも続くはしごが備え付けられていた。トルクは左手で杖を持ちながら、右手を使ってはしごを降り始めた。
 はしごを下りる途中で、トルクのお腹がきゅるきゅると鳴る。手と足の動きを止め、トルクは杖を持ったまま、白衣のポケットからチョコレートを取り出した。それを半分に折って口に放り込む。口の中に甘い味が広がった。
 トルクは学者の家系だった。母も祖母も曾祖母も奨学金で大学に入り、そのまま研究職に就いた。トルクも母達と同じ道を歩むつもりだった。貧しくても、頑張れば最後には報われるのが学問の世界だと思っていた。
 トルクの母親は料理が下手だった。どんなに簡単な料理でも火を使う料理はすべて黒くし、刃物を使う時は料理に血が混ざった。それでも、家に帰ると夕食を作って待っていてくれる母親がありがたかった。
 トルクが降りるはしごは細長く、どこまでも下に伸びていた。一番下は見えず、ただ暗闇が口を開けている。一歩一歩降りるに従って、だんだんと足取りが重くなるのが感じられた。
 軌道上構造物である『シティ』はとてつもなく広いが、トルクは案外狭いのかもと思っている。研究一筋の母が『シティ』の中で市長と出会い、短くても情熱的な日々を送ったという事実はトルクの根拠として充分だった。
――市長にとって私は何番目の子どもだったのだろう。子どもは少なくとも五〇人以上いたらしいけど。
 内層から外層へと移動するにつれて、重さの回復にトルクは安らぎを感じた。内層は変に身体が浮き上がってしまって、思うように身体を動かせないのでトルクは嫌いだった。
 トルクは足を時々ぶらぶらさせて、引っ張られる感触を楽しんだ。
 市長は母親に養育費を毎月渡しているという話をトルクは知っていた。だが、母親はその金に全く手を付けていない。最低限の生活を余儀なくされているが、それでもトルクは幸せだった。今時、自動で供給される料理ではなく手料理を食べる事のできる人間なんて殆どいなかった。それがまずくてもトルクは母親の愛情の一つなんだと思っていた。
――お母さんと違って、お父さんはなんて冷たいのだろう。
「もし、本当にこれが起きるのなら、二百年前のように地球脱出した位じゃ、どうしようもないほどの事態なのに。まだ、最低でも一年ほど時間があると言っても、一年じゃどうしようもないかもしれないのに……」
 トルクはぼそぼそと呟きながらはしごを降り続けた。

 長かったはしごが終わり、一Gが支配する床に降り立つ。半日離れていただけだというのに、重さがずいぶんと懐かしく感じた。
 ここからトルクの家までは、まだ長い距離がある。トルクは大きく背伸びをしてから歩き始めた。
 湿り気を帯びた風が、トルクの後ろから静かに吹き抜けている。
 トルクは今一六才だった。飛び級に継ぐ飛び級で、現在『シティ』の大学に在学している。才能があればどこまでも突き進めるような社会システムだとトルクは思っていた。
 だが、それは違ったのだ。それをトルクは市長との会見で嫌と言うほど味わった。一六才という年齢に社会的地位はない。一六才はあくまで保護の対象であり、養育費を払わなければならない対象だった。社会に対して働きかけることなどできない。
 二百五十才と一六才の面会は、結局の所全く儀礼的な意味しか持っていない。面会を行ってもそれによる効果は何も発生しない。
 分かっていたことだった。だが、トルクは肉親であるという理由で観測許可が出ると信じていた。
――観測するのは自分ではなくても良かったのに。誰でもいいから発見すれば、『ヘリウムフラッシュ』の対抗策が練られると思ってた。
 最外層部の茶色い床を見ながら歩いていると、何かにぶつかった。
 顔を上げると、そこには黒服と黒ネクタイが見えた。トルクは後ろへ下がり、「すいませんでした」と言って男の脇を通り抜けた。
 肩を掴まれ、身体全体が後ろへと引っ張られる。トルクは振り向いた。男は黒いサングラスをかけていた。
「なにするんですか。急いでいるんです」
「市長の娘のトルク嬢ですよね」
 トルクは男の手首を掴んだ。肩から引きはがそうとしたが男の手の力は強く全く動かすことができなかった。
「だったら何なんですか」
「ちょっと来てもらいます」
「嫌です」
「いいから来いっ」
 男は強くトルクの肩を引っ張った。
「何をするんですか。やめてください!」
 トルクが恐怖を感じて両手に力を込めると、杖の先端が光を放った。光は球形に拡大し、男の身体をはねのけた。男はよろけたが、自らの持つ杖を床についてバランスを取った。傾いたサングラスを直してトルクを見ている。
 トルクは、自分の身体のまわりに薄い緑色の球体が発生している事に気づいた。オルマティロッドの機能の一つであるシールド機構が、トルクの恐怖心に反応して作動していた。 シールド機構を解除する。薄い球体は弾けるように消えた。
――何なのよ……。
 トルクはため息をつきながら改めて辺りを見回す。サングラスをかけた男達がトルクの周囲を取り囲んでいた。十人すべてが同じ黒服と黒ネクタイをしている。
 全員が先のとがった杖を持っていた。先端は全て武骨な円錐で、それらの頂点はトルクの方を向いている。黒服に円錐型の杖を持つ集団にトルクは見覚えがあった。だが、その集団が自分の前に現れる事なんて無いと思っていた。
 トルクは足の裏で床を擦るように壁際へと下がった。
「私に何か用ですか? 私は警察に用なんてないのですけど。何の事件があったか知りませんが、事情聴取に応じる暇なんてないです」
 警察官のオルマティロッドに抵抗する術はない。彼らは犯罪者に対抗するために、常に最新のモデルの杖を装備している。トルクの杖には自分を守るための最低限度のシールド機構しかついていない。警察官の杖にはシールド中和機構がついている。何が理由でこんなにも強圧的態度を取られるのかトルクには分からなかったが、変に逃げようとしても捕まるだけだった。
 最初にトルクの肩を掴んだ警察官が、胸ポケットから黒い手帳を取り出した。そしてそれを開き、中を読み出した。
「トルク・エル・カミューラル、あなたを煽動の容疑で逮捕します。あなたは『太陽の寿命がもう無い』という甚だあり得ない話を広め、民衆の不安を煽ろうとしました」
 トルクは目を丸くした。「――はあ?」
「あなたには黙秘権があります。もしも――」
「ちょっと待ってください」トルクは眉を上げた。『ヘリウムフラッシュ』についての論文は未だにどこにも発表していない。市長にしか見せていない。
「――黙秘権を放棄する場合、あなたが口にすることはすべて、法廷であなたに不利な証拠として扱われる可能性があります。あなたには――」
「父さんの仕業なのね!」トルクは叫んだが、男は眉一つあげずに読み上げ続ける。
「――取り調べの時に弁護士を立ち会わせる権利があります。もしも弁護士を――」
「観測をするだけで真偽がはっきりするのにっ」
「――雇えないときは、無償で弁護士を選任してもらうことができます。私が読み上げた権利を理解しましたか?」
 トルクはふらふらと後じさった。背中に壁を感じた。
 目をつぶり大きく首を振って、トルクはもと来た道へと駆け出した。ぼんやりとしていた黒服の男の肩をはねとばして走る。
 後ろを振り返ると、黒い男達はトルクのことを追って駆け出していた。彼らのオルマティロッドの先端はトルクの背中をぴたりと狙っている。
 トルクは緩やかにカーブを描く通路を走った。
 最終的に逃げられないと分かってはいても、逃げ出さずにはいられなかった。内層へのはしごにまで行けば、もしかしたら振り切ることができるかもしれない、と思っていた。
 突然、背中へ鈍い衝撃が加わった。視界が揺れ、天地が逆転する。
 前のめりに倒れ込み、何度も身体が回転する。杖が壁や床にぶつかり激しい音をたてた。
 前方の壁に肩を強打し、回転が止まる。持ち主を怪我から守るはずのシールド機構は何故か作動しなかった。トルクは右肩を押さえながらよろよろと立ち上がった。
 壁に背を向ける。警察官達はすでにトルクに追いつき、半円を描くように取り囲んでいた。
「抵抗すると、さらに罪が増えますよ」
 男達の一人が言う。
「私は何もしていないです」
「弁明は弁護士と一緒にゆっくりとあとでしていただきます」
 トルクは回りすぎてふわふわな頭でこの状況について考えた。市長が自分のことを逮捕させようとしている。それ以外考えられなかった。
――司法と行政は分離していたんじゃないの?
 身体を動かさず、片手で背中の壁を調べた。手にはひんやりとした金属の感触がある。トルクの推測が正しければそこにあるはずのものを探した。ゆっくりと指先で円を描く。指先は小さな突起物にぶつかり、止まった。
――あった。
 トルクは自分のオルマティロッドにいくつかの命令を入力し、確認を取った。
 小さく息を吸って、トルクは中心にいる男に目を向けた。
「『シティ』の全市民は、どんな罪を犯していても、現行犯以外ならば、司法機関からいかなる肉体的損害を与えられることはない、と法律によって保証されていますよね。ミランダ警告と同じくらい重要な事です。警察は市民に危害を加えることはできないですよね」
 トルクは真っ直ぐに男の目を見て言った。男は無表情に「そうですね」と答えた。
――大丈夫だろうか。できるだろうか。
 トルクはゆっくりと息を吐きながら、後ろの壁が彼らに見えるように身体を移動させた。
 警察官達の表情は変わらない。何の感情もこもっていない複数の目がトルクの様子を見ていた。
 後ろの壁には小さな扉がある。扉の横には四角い施錠装置が付いている。施錠装置の中央にあるボタンに、トルクは指をかけていた。
「私の後ろにある扉はエアロックです。それ以上近づくと、私はこのエアロックを開けて自殺します。私に自殺されて欲しくなかったら、今すぐに、多目的電波研究施設でセルシウス効果が見られるかどうか調べてください。法律では心理的な追いつめを行って市民に自傷行為を促すことも禁じているはずです」
 警察官達の杖の先が微かに揺れた。無表情が崩れて驚きが顔に表れている。
「セルシウス効果がみられないようならば、私はおとなしく捕まりましょう。見られるのなら、私は無実です。そのことで無実だと言うことが証明されるはずです。どうしますか?」
 真下の地球に向かってゴミを投げるダストシュートだろうとトルクは推測していた。より大きい初速を得るための加速機関が両側についている。大人なら狭すぎて入れないが、トルクの体格ならやすやすと入ることができそうだった。トルクが触れているボタンの近くにはダイヤルがあり、この施錠装置がオルマティロッドによる個人認証をしない旧式のタイプだということを示していた。
「私のオルマティロッドは解錠技術に長けたタイプのものです。もうすでにロックは外しました。私が触れているボタンを押すだけでこの扉は開きます」
 トルクは大きく息を吸う。杖を握る手が汗ばんでいる。
「市民の安全を守るのが警察の役目なんでしょう? 私を殺したくなかったら、多目的電波研究施設に指示を出してください」
 トルクは大声で言った。足は気を抜くと震えだしそうだった。
 もちろん、はったりだった。トルクがボタンを押してもエアロックは開かない。
 トルクの杖に扉を開く技術などない。だが、トルクは向こうがそのことを知る手段は無いと思った。外見がシンプルでも多機能なオルマティロッドはいくらでも出回っており、ほとんど飾りのないトルクの杖が解錠技術に長けている可能性が無いわけではなかった。
 中央の男が杖の先を下げ、目をつぶった。他の男達は依然としてトルクに杖の先端を向けている。
 男はすぐに目を開く。顔は無表情に戻っていた。
「『セントラル』に問い合わせた。あなたのオルマティロッドに解錠技術は搭載されていない。あなたの言っていることはすべてはったりだ。警察は『セントラル』の情報に自由にアクセスできるのですよ」
 トルクは杖を持った手を頭に乗せた。『セントラル』というのは『シティ』の情報を一元管理している。内層住民にはアクセス権があるが、外層住民にはアクセス権がない。滅多に使うことがないため、トルクはその存在を忘れていた。背筋を伸ばし、杖をまっすぐ中央の男に向ける。
「『セントラル』が間違っているかもしれないわ」
「『セントラル』は、九十八パーセントの確率であなたのオルマティロッドが最低水準のものである、と結論しています」
「二パーセントは大きいわ」
「いえ。誤差の範囲内です」
「押すわよ」
「ご勝手に。開きませんから」
 男は杖の先をトルクに向けた。円錐がトルクからは円に見えた。
「あなたには一時的に眠ってもらうのが一番のようですね」

――そのあとのことは、今となってはうやむやになってしまって詳しく思い出せない。
――唯一の真実は、私は今宇宙空間にいて、地球に向かって降下中だということ。
 トルクは、自らの自転でまわりの星々がゆっくりと回転しているように見えた。上を見上げると、すでに小さくなってしまった『シティ』が見える。シティは黒光りしている。
――向こうからは私を助けられそうにない。
――眼下には、私を食べようと待ちかまえているような球体が、ほとんど光のない夜の側を私に見せていた。
トルクは手にしっかりとオルマティロッドを握りしめていた。法律で定められた最低水準のものであっても、市民を真空から守る程度の生命維持フィールドを展開することができた。トルクはそのことを初めて知った。
――問題は、このフィールドが大気圏突入に耐えられるかどうかね。
 トルクは膝を抱えて丸まった。寒くも暖かくもなかった。
――なんてことをしてしまったのだろう。まさか、オルマティロッドの能力に頼るまでもなく手動でドアが開いてしまうなんて。
 トルクは自分の体重が軽いことを呪った。あと五キロほど重たかったら、大気圏突入軌道ではなく、地球を周回する楕円軌道になったはずだった。本来放り込むゴミの重さとトルクの重さがほぼ等しく、見事に空圧加速されてしまっていた。
――大気圏突入しなければ、助けられる可能性があったのかもしれないのに。
 眼下に広がる地球が『シティ』とは全くの別世界だということをトルクは知っている。大厄災後、『シティ』と地球は完全に関係を断ち切っていた。野蛮な状態に戻ってしまっているという事をトルクは聞かされていた。
 トルクは首を小さく横に振り、遠くに見える半月を見る。明暗境界線はトルクの予想以上にくっきりとしていた。
――後悔してもすでに遅いか。起きてしまったことはしょうがないわね。
 トルクはただ、自分のオルマティロッドが発するフィールドが大気圏突入を耐えられることを祈った。
――生き残ってから、その後のことを考えればいい。
 フィールドが大気との接触で激しく揺れ始め、トルクは目をつぶった。



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創作時期 July 2001 改稿時期 April 2003

これは工房長co_metのオリジナルです。この作品の無断転載を禁じます。