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. 「ねえ、『シンカイ』って、なあに?」 僕は二つ年上の真帆姉に聞いた。 「伸也、なんでそんなこと聞くの?」 真帆姉は、僕に向かって微笑んでいる。 僕と真帆姉は、二人きりで石段に腰掛けていた。真帆姉はたった二つしか歳が離れていないというのに、僕よりもずっと大人びて見える。実際、僕よりもはるかにいろいろなことを知っていて、真帆姉は自分のことを保護者だと思っているらしい。 「同じクラスみつる君が、『シンカイなんて大嫌いだ。』って言ってたんだ。僕、頭悪いでしょ?だから、彼の言った意味がわからなくて、聞き返したら、『本気でそんなこと聞いてるのか?おまえ、そんなことも知らずに生きてきたのか?ばかじゃねえ?死んだ方がいい』って言われたんだよ」 「それで?」 「殴ってやった。みつる君、腕っぷし弱くて、口だけだから。僕に向かって泣き叫んでたよ。それである程度すっきりしたんだけど、けど、やっぱり『深海』の意味がわからないと、もやもやしたものが残っちゃって」 真帆姉は横を向いて、膝の上においていた僕の手をとった。真帆姉の手はすべすべとしていて、とても感触が良かった。 「ダメじゃない。暴力は何も解決しないのよ。暴力は嫌なことしか起こさないの」 真帆姉は僕の手を両手に持ったまま、そのまま自分の頬へ持っていった。僕の指の先は真帆姉の肌に触れた。暖かかった。 「こんなにかわいくて小さな手なのに、人を殴るなんて。あなたの手は殴る為にできているわけじゃないのよ。こうやって、他の人の温かなぬくもりを感じる為にあるの」 こうやって、真帆姉に柔らかにたしなめられると、僕は自分がとても悪いことをした気がして、後悔の気持ちでいっぱいになる。 「ごめんなさい」 「いいのよ。もう二度としなければいいの。過ちを繰り返さなければ」 そう言ってから、真帆姉は上を見上げた。僕もつられて見上げた。 青いような、緑色のような、紫色のような、そんな色が広がっていた。 「『シンカイ』っていうのはね、『深いウミ』っていう意味なの」 真帆姉は見上げたまま言う。 「『ウミ』って、なに?」 僕は『ウミ』というものも知らなかった。 「海というのはね、世界でもっとも大きな池みたいなもの。生命が最初に生まれた場所で、私たちにとっては、なくてはならないものなの。深海というのは、海の深いところのことよ。こんな話があるわ…。」 真帆姉は僕のほうを再び向いた。髪がなびき、ふんわりとした匂いがしたような気がした。 「ある人が、海の上で航海していました。その人は、ちょっとした不注意で、とても大切なものを海へ落としてしまいました。その大切なものはその人が手を伸ばしても決して届かないところへ落ちていってしまいました。大切なものは深海へ落ちていってしまったのです。ある人は、その大切なものを取り戻そうとして海へと身を投げ、そのまま帰ってきませんでした。その人は、光の届かない、決して戻ってこられない闇へと消えたのです」 「へー。深海って、戻ってこられないんだ。どうもありがとう真帆姉」 僕は、謎が氷解してすっきりした気持ちのまま、真帆姉に礼を言って別れた。 . 伸也がいなくなってから、真帆は大きなため息をついた。 真帆は上を見上げる。 真帆は知っている。 自分たちが闇の中にいることを。 上の世界は決して自分たちのことを発見してくれないということを。 深海ドームが圧力により崩壊しようとした時、居住者達は自分の子供達の遺伝子を改変した。 遺伝子改変により子供達は生き残ることができた。 だが、強大な水圧に耐えられる構造を持ってしまったことにより、逆に低圧力の海上に決して行けない身体になってしまった。 遺伝子を改変する為のツールは、深海ドームの崩壊とともに消失していた。 あったとしても、もとの身体の人間は決してここでは生きることができない。生まれた瞬間に高圧力で圧死するだろう。 私たちは光の届かない場所にいる。私たちは故郷へ帰ることができない。 けど、私たちはここで生きるしかないのよ。 真帆は、ひれをゆっくりと動かして、自分も家へ帰ることにした。 . |