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むかで現象

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 僕は地下鉄への入り口の前で立って、上を見上げていた。
 ダークブルーの空に向かって、真新しく見えるほど赤く塗り直された札幌テレビ塔が伸び上がっている。
 塔の中央にある電光掲示には、『16:00』という巨大な数字が表示されていた。
 首筋から冷気が入り込んでくる。
 僕は顔を下げ、コートのファスナーをできるだけ上へと引き上げた。金属がのどぼとけに当たって冷たい。
 全身に震えが走る。コートの袖口から侵入してくる寒さを防ぐすべを僕は持っていない。
 両手をこすりあわせながら、僕は大通公園を歩きだした。
 噴水がはげしく水を噴き上げていた。噴水のそばには、カップルと思われる白い肌の二人が地べたに座っている。カップルの周りには小さな虹ができていた。
 吐く息は白い。僕は噴水を大きく避けるように歩き続けた。
 僕に気づいたすべての人が、僕のことを珍しげに見る。僕と同じ肌の色、瞳の色を持つ人間は大通公園には少ない。
 僕は自分がマイノリティであることを自覚している。
 あのときから僕はマイノリティになったのだから。
 僕は気にせずに、東西に長い大通公園を歩き続けた。
 金色の髪、青い目の少年が、サッカーボールを両手に抱えて左から走ってきた。僕の周りを三周ほどぐるぐると回り、僕の顔を見上げながら、
「トュイキタァイェッツ?」
 と笑いながら聞いてくる。その言葉がロシア語だということを僕は知っていた。
 そして質問の意味も僕は知っている。『おまえは中国人か?』と聞いているのだ。
 過去に何度も聞かれた質問。無視するのもおっくうなので、僕はあらかじめ答えだけ丸暗記している。
 ロシア語など、当然、喋れない。
「ニェ。ヤァイポーニイェッツ」
 そう言うと少年の青い目が見開かれた。手に持っていたサッカーボールが地面に転がる。少年はあわてふためいて走り去っていった。
 僕は立ち止まり、少年が走っていく方向を見る。
 少し遠くに、少年と同じ髪の毛をした男が僕の方を見て立っていた。瞳の色までは遠い為にわからない。たぶん、少年の父親なのだろう。
 外国人の顔はよくわからないが、なんとなく似ている気がした。男の所へ駆け寄った少年が、僕を指さしながら何かをわめいている。顔が紅潮しているのが僕からでもわかった。
 僕は男に軽く会釈する。男も微笑みながら会釈を返した。傍らの少年はまだ僕の方を指さしている。男は少年の頭の上に手を置いた。
 僕は再び歩き出す。
 道路と公園の境目近くに、ベンチがひとつ置いてある。公園の中心線方向を向いたベンチは、乾いた鳩のフンでところどころ白くなっている。
 僕はためらいなく腰を下ろした。
 腰から、冷気が全身のすみずみにまで行き渡る。僕は肩をすくめて縮こまった。コートの襟を立て、茶色い地面を見つめる。冷たい手を頬に当て、耳を澄ます。
 公園で過ごす人の声が聞こえてくる。冷たい風に運ばれて、僕の耳には様々な言語が聞こえてくる。
 ロシア語、英語、中国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語。
 日本語は、ない。
 僕が二〇年近く馴染んできた日本語は聞こえてこない。
 当たり前だ。
 大通公園に、日本語を理解できる人間は僕しかいないのだから。
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 誰が言ったのか、その現象は『百足現象』と呼ばれている。何かの文字列を読むことで起きる現象らしいが、一体何を読むと起きるのかは誰も知らない。内容を知っただけで意識を失ってしまうらしい。そのため、知った人間は知らない人間に内容を教えることはできない。
 しかも、その現象は日本語を理解できる人間にしか起きない。
 最初にその現象が起きたのは、インターネットの巨大匿名掲示板上だった。その書き込みを見た人間すべてが原因不明の昏睡状態に陥った。マスコミはその書き込みを不用意にも新聞やテレビで公開した。
 新聞やテレビを見た日本人すべてが昏睡状態に陥った。

 僕は頬から手を離し、コートの中に手を引っ込めた。両腕の袖口を重ね合わせ、外気の侵入を防ぐ。
 ときおり吹く強い風は、地面に散らばった落葉を舞散らかしている。
 もうマフラーの季節なのかもしれない、と僕は思った。
『百足現象』が起きて一ヶ月が過ぎると、日本人はまったく出歩かなくなった。日本人はあらゆる日本語を見るのを拒否した。
 どの日本語が危険かわからないのだから、当然の反応だった。
 どの街からも日本人の姿は消えた。

 ただ一人僕だけが、大通公園にいる。
 ロシア人やアメリカ人のあふれかえる街で、ここが日本の街だということを主張するために、僕は存在をアピールしないといけないのだ。
 僕は公園でボールを蹴る西欧系やスラブ系の子ども達の様子をぼんやりと眺めた。楽しそうに笑いながら、かけ声をかけながらボールを蹴っている。
 僕の方へ走ってくる少年がいた。
 今日、最初に会った少年だった。少年はボールの代りにスケッチブックを抱えて小走りに僕の方へと走ってくる。スケッチブックは黄色く、古そうに見えた。
 にこやかな顔をして、少年は僕の目の前に立つ。
「トュィズナァィェシ、エータ?」少年はスケッチブックをめくり始めた。僕は少年の言っていることが理解不能だった。
 僕は日本語以外は喋れない。
 理解する気もない。
 少年がスケッチブックの一ページを堂々と誇らしげに見せたとき、僕はつかの間、身体に染み込んでくる寒さを忘れた。
 白いスケッチブックに、黒いマジックで書かれている文字は幼稚で稚拙だったが、意味は理解できた。
 僕の呼吸が止まる。
『息を吸うには吐かなくちゃいけない、息を吐くには吸わなくちゃいけない。じゃあ、呼吸って最初に何をすればいいの?』
 頭の中がその文章で埋め尽くされていくのがわかった。僕の思考に文章が上塗りされていく。思いつく考えという考えが、片っ端から消去されていく。
 記憶も文章に埋め尽くされていく。
 息ができない。どうすればよかったのか。呼吸をするには最初に何をすればいいんだろう。僕の呼吸は止まっている。
 息をしたい。冷たい空気が欲しい。凍え死んでもいいから冷たい空気を。
 僕はベンチから立ち上がった。のどを押さえ少年を見下ろす。少年はいたずらっぽい笑みを浮かべて僕を見ている。
 どこか遠くでボールが蹴られる音がする。
 僕は瞬間、『百足現象』の名前の由来を悟った。
『百足にどの足から歩きはじめるの? と聞くのと同じ事なのか……』
 意識が文章に塗り込められる前に、僕は最後の思考をした。

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創作日 10/26/2002
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