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好きである為に

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 一つの命が消えようとしていた。
 薄暗い街灯の下、真っ黒い空からちらほらと雪が降っている。
 道路にはうっすらと氷が張っていた。
 空気は冷たく、輝いている。
 いまわの際だというのに、彼のそばには誰もいない。
 彼の体温は徐々に冷気に奪われていく。
 彼の視界には見えるのものは、足を引きずった一匹の蟻と、その蟻を死に至らしめようとしている雪だけ。
 蟻が何をしようとも、雪を降り止ませることはできない。
 蟻はただ、視界の向こうにあるはずの楽園へと足を進めるだけ。
 見えなくても、見えると信じないと生きてゆけない現実。
 それが徒労に終わると分かり切っていても、やらずにはいられない性。
 平面の世界に住んでいる蟻にとって、雪は信じがたい現象だろう。
 理不尽で、
 避けることのできない、
 冷徹な雪。
 蟻の動きが止まる。
 蟻は後ろを振り返る。
 引きずっていた足が千切れていた。
 バランスを崩し、その場に倒れ込む。
 蟻と目が合った。
 とても小さな、暗闇よりもわずかに明るい黒い瞳。それが、彼と同じような格好をして、彼と目を合わせている。
 彼はそう思った。
 たぶん、それは彼の妄想であろう。彼はそれを、自分の勝手な妄想であることを知っていた。
 あまりにも自分に似ていた蟻を、自分と重ね合わせたのだろう。
 雪がしんしんと降る。
 地面に到達した瞬間に、とどまることなく消える雪。
 蟻の瞳から光が消えた。
 ような気がした。
 彼のまわりには、どのような生き物も存在しなくなった。
 彼はたった一人で、世界とのつながりを絶たなければならない。
 いや、すでに世界とのつながりは絶たれていると言えるかもしれない。
 彼がいなくなっても世界は何も変わらないだろうから。
 しかし、彼が生きている限り、彼自身が彼自身を彼と考えるだろう。
 世界が彼を必要としなくても、彼は自分自身を必要としている。
 命つきる最後まで、考えることをやめない為に。
 彼はその為に生まれてきたのだから。
 彼自身が存在するには、世界が存在しなければならない。
 世界はその為にあるのだから。
 世界は、誰かが考えるときの土台として存在する。
 空間が存在しなければ、誰も落ち着いて考えることができない。
 時間が存在しなければ、誰も記憶を持つことができない。
 彼のまわりには誰もいない。
 生き物は何もいない。
 あるのは、無機的な街灯と、雪だけ。
 彼が望んだことでもある。
 彼は誰もいないことを望んだ。
 自分が最後になる為に。
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 彼は彼女が好きだった。
 たとえ彼女が彼のことを気づかなくても。
 たとえ彼女が知らずに彼につらく当たっても。
 彼はただ笑って、彼女の側にいられれば良かったのだ。
 彼女を好きであるという気持ちを捨てたくなかった。
 最後まで捨てたくなかった。
 彼は最後まで彼女のことを想っていたかった。
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 彼の思考が徐々に凍り付いてゆく。
 体温とともに、肉体とともに、思考が死のうとしていた。
 彼は凍り付く思考の中で、彼女への想いを最後まで残そうとしていた。
 彼は彼女への想いを永遠にその場所へとどめようとしていたのだ。
 そんなことは、してもできないことは分かり切っていたのに。
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 彼の瞳に光がなくなる。
 彼が見た蟻の瞳のように。
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 雪がやむ。
 街灯が消える。
 すべての音が消える。
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 すべての物質が消える。
 時間と空間が消失する。

 彼は最後の知覚する生命体だった。
 観測者がいない世界は存在理由を失い、消滅する。
 彼が愛した世界は、彼が死ぬと同時に、後を追うように、消滅した。
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創作日 11/17/2001
これは工房長co_metのオリジナルです。この作品の無断転載を禁じます。
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