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ことばみっつ



  川の土手の上を、白い装束を来た集団が歩いている。
 女達は背筋を伸ばし前を見据えながら、男達は肩の上に白い直方体を担ぎながら、ただ足を繰っている。俺は薄汚い民家の壁に寄りかかって川の反対側からその光景を見ていた。
 雪よりも白い布で包まれた直方体には、時折光が煌めく。ちらちらと不規則に動くその光は、布に縫い込まれた無数の銀により反射した太陽光だ。緩やかに吹く風で布の端がはためいている。
 この街にいる誰もが、彼女の名前を知っている。
「ちひろ」
 名を口に出すと、心が痛んだ。一緒に吐いた息と共に、何かが俺から抜けていくような気がした。俺は強く拳を握りしめた。
 もう、彼女は側にいない。名前を呼んでも、応える笑い顔はもう無い。俺が気づかなかったせいで、彼女は永遠に帰ってこない。
 涙が流せればいいのに、と思う。
 彼女はよく笑い、よく泣いた。ころころとよく表情が変わり、拗ねて口を突き出した仕草がまた可愛かった。『クオーター』から『ハーフ』になろうかとよく悩んでいた。今の体で満足しているけど貴方と同じパーセントの方がお似合いな気がする、と毎回言っていた。俺はどちらでも構わなかった。
 ふらついた回想から、土手に視線を戻す。集団はもう大分遠く離れていた。手も目も届かなくなるのは、もう少しだった。
 葬式には、家族以外は出られない。墓参りにも行けない。ナノ治療すら拒む住人が多数の極めて保守的なこの街では、俺はよそ者だ。そして体の半分を人体支援機器に自ら置き換えた男の同棲を許す人間はほぼいない。いくら娘が愛した男だとしても父親に許されるはずもない。『クオーター』と『ハーフ』がパーセントの違いでしかないにも関わらず。
 拳を開き、裏返す。皮膚に時計を表示させる。二時五十五分。ちょうど集団は民家の影に入って見えなくなった。
 この街で初めての、『デュアルコアウイルス』の感染者で死亡者であり俺の彼女だったちひろは、俺の見る世界から消えた。 デュアルコアウイルスは、言葉を奪う。
 感染者の脳そのものから言葉を消去する。そのため、喋れなくなるだけではなく、思考すらもできなくなってしまう。思考の手段である言語を奪われた脳は、自分を自分たらしめている基盤を失い死に至る。
 自我の崩壊によるショック死。それは致死率百パーセントだった。
 俺は空を見上げた。茜色に染め上げられた空は、果てしなく高い。大きく背伸びをしてから、時計を見る。午後四時三十分。冷えきった両手をポケットに突っ込み、俺は川へ向かって歩き出した。
 斜面には、足首程の背丈の草がびっしりと生えている。この街では、水害対策のなされていない自然に近い川が売りだという。水害対策をしてかつ自然らしく見せる方法など無数にあるのに、なぜわざわざ技術を放棄するのか、俺にはわからない
 川辺にはトンボが飛んでいる。夕日を浴びながら草に留まっているものもいる。俺は足が水に触れないぎりぎりのところに腰を下ろした。脚の下の無数の微生物達が、突然の日影に戸惑っているのがわかる。
 俺はまだ、世界を認識している。思考を維持している。自分の使える言葉が少なくなったという実感はまだない。発症してから一時間半しか経っていないからだろうか。俺は両手を後ろについて大きく息を吐いた。
 デュアルコアウイルスは、生体部と機械部の両方に感染する。発症の時刻までに機械部のシステムを言語喪失が可能なように改変する。『ハーフ』であればその発症時刻がわかる。機械部を介してのみ発症するのがこのウイルスの特徴だった。生身なら感染すらしない。
 だからこの街は未だ平和だった。
 ちひろは何も知らなかった。俺も何も知らなかった。口数が少なくなって同じような言葉を繰り返し使うのは、ただ単に俺に甘えているからだと思っていた。気怠げな朝日の中で指先を絡めていたときにはもう、末期症状にまで来ていたのだろう。とろんとした目つきで、「バイバイ」と俺を見送ったちひろを、なぜもう一度抱きしめてやれなかったのだろう。バイトをサボってしまえば、彼女の異変に気づき病院に連れていけたかもしれなかったのに。
 俺は救いようがない。俺がちひろより先に死ねばよかった。そうすれば彼女は病院に行けたかもしれない。助かったかもしれない。
 気がつけば俺の周りには、ちぎれた草が散乱していた。手のひらが草にまみれている。立ち上がって草を払い落とす。トンボが一斉に飛び立った。二匹がつがいになって飛んでいく。揺れる川面から光がトンボに祝福を与えているように見えた。
 まだ、俺の中には言葉がある。
 俺の中で、機械部が生体部に絶え間ない干渉を加えているのがわかった。視野の隅に赤い警告マークが踊っている。脳から言葉を取り除いている最中なのだろう。俺が無視の信号を送ると警告はうっすらと消えていった。
 川に手を入れる。刺すような冷たさが手の周りを包む。構わず俺は平べったい小石を探し、つかみあげる。腕を水平に構え、大きくサイドスロー。小石は川面を数回跳ね、反対側の岸にたどり着く前に沈んだ。 気がつけば夜だった。
 俺は水面に右手を突っ込んでいた。川底には小石は無く砂ばかりになっていた。慌てて手を引き上げる。青白くなった右手はほとんど感覚が無くなっていた。
 何をしていたのだろう。
 意識をなくした覚えはない。意識を無くしていたのなら、長い時間しゃがんでいられないはずだ。
 街灯と民家の灯りが川の向こうに見える。後ろを向けば、ちひろを見送ったときに寄りかかっていた民家の窓からの光が、目に飛び込んでくる。空には半分雲に隠された月が輝いている。
 左手に時刻を浮かび上がらせる。午後七時二十分。発症してから四時間二十分が経っていた。俺は既に、ちひろが俺と挨拶を交わした時よりも症状が進んでいるはずだ。
 だが、俺の中にはまだ言葉がある。俺は言葉を用いて思考している。言葉が足りないとは思えない。
「ちひろ」
 声に出して、噛み締めるように何度もその名を呟いた。俺から放たれた言葉は、川と闇に消えていく。
 デュアルコアウイルスに感染して発症しなかった人間はいない。『ハーフ』でも『クオーター』でも。この街でただ一人の『クオーター』が発症したのだから、俺が発症しないはずがない。機械部は異常を俺に伝えている。だが、俺には自覚症状が無い。
 言葉はまだ俺の手元にあるのだ。 俺が風邪を引いて寝込んだときに背中をさすってくれたちひろ。ちひろの指先のぬくもり。柔らかな微笑。何も言わずに顔を近づけるちひろ――。
 俺は頬にひやりとしたものを感じて目を覚ました。朝露が落ちたらしい。うつぶせで俺は草の上に寝ていたのだ。目をこすりながら体を起こす。
 すぐに時刻を確認する。午前六時十五分。発症から十七時間が経っていた。
 いつの間に眠ってしまったのだろう。眠った覚えが無い。肌寒いこの季節にわざわざ外で眠る習慣等無い。意識を失っていたのだろうか。
 立ち上がって辺りを見回す。土手の上を、自転車に乗ったおじさんが走っている。犬の散歩をしているおばさんもいる。
 空を見上げると、かろうじて見分けられるくらいの高さに飛行機が飛んでいた。
 俺の中には言葉がある。思考している。
 機械部の自己チェックを確認する。代謝補助機能が通常の半分程しか機能していない以外は、おおむね正常だった。
 感染者は、発症から十八時間プラスマイナス二時間で死亡している。俺はいつ死んでもおかしくない状態のはずだった。ちひろのいない世界に意味などない。さっさと消えてなくなりたい。なのに、俺は言葉を失っていない。
「……」
 助かったのだろうか。俺だけが助かったのだろうか?
 近くを見覚えのある人が通った。俺は歩み寄った。確かちひろの叔母だったはずだ。会釈をしてから口を開く。
「……」
 声が出ない。言葉が出ない。なんて喋れば良いのかわからない。
「いいっきゃいえいらおいいうら?」
 頭の中が真っ白になった。おばさんの言っている事が全く理解できなかった。犬の鳴き声にも等しかった。
「けっぢゃりおだいいさいらちひろす――」
「あーあー」
 口から間抜けな音が鳴った。
 おばさんは顔をしかめて首を振った。俺に背を向けて再び土手を歩き出す。膝の力が抜ける。俺は地面にへたり込んだ。
 語尾に理解できる単語が聞こえたような気がした。でもそれが何を意味しているかはわからなかった。そしてそこで俺は唐突に気づいた。
 俺の中に言葉がないことに。
 自分は言葉を用いずに思考している。 夕方になっていた。時刻を確認しようと腕を見るが、そこに書かれている記号を俺は理解できなかった。また、夕方になったことに気づかなかった。時間の流れがおかしいとしか思えなかった。
 機械部は、完全に沈黙していた。
 土手に転がる石を広い、腕を横に構える。石に回転を与えるようにサイドスロー。
 一度も跳ねずに、沈んだ。
 身体に力が入らない。膝立ちのまま、橙色に燃えた川を眺めた。意識を失う前にちひろがいた場所。ちひろが見た最後の光景。二つの茜色。その間をトンボが渡っていく。
 自分が死につつあるのがわかった。圧倒的な情報量に蹂躙され千切れていくニューロン。カリウムチャンネルの弛緩。自我の崩壊に伴って脳細胞が破壊されていくのが、知覚できた。
 何かから解き放たれた感覚。
 あらゆることが知覚できた。自分の身体の中を流れる赤血球から、太陽の内部活動まで。無限の情報。身体に理解が染み渡っていく。
 言葉は認識の枷にすぎない。
 だが、弱すぎる人間の自我は、現実世界全てを受け入れられない。
 俺は何もかも理解した。
 ちひろがいま、どこにいるのかすらも。 彼は世界に拡散していく彼女を捉えた。
 彼は死に、世界に還った。


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創作日 12/20/2004
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