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確率崩壊

8,収束




 雨が。
 雨が際限なく降り続いていた。
 祭りのテントの上には水たまりができ、テントの端からは雨より強い勢いで水がしたたり落ちている。雨が地面から熱を奪い取っていたが、テントの中は生徒たちの熱気に包まれ、気温が下がる気配はなかった。
 傘と傘がぶつかり合うほど密集した校舎前の露店群を抜けて、グラウンドの端にある農場の方へと向かった。
 地面はぬかるみ、歩きづらかった。泥まみれにならないように片浜は注意深く歩いているつもりだったが、それはたいした効果を上げていなかった。
 農場へ向かう二つの足音。一つの赤い傘。雨に濡れているために、より強い色となった赤が、周りの緑に対して目立っていた。雨の日は青を基調とする世界。夾林学園の制服は男女ともに青系だった。赤いのは、傘と、佐那田のバンダナだけだった。
バンダナの先は雨でしっとりと濡れて垂れ下がっていた。
 校舎の中に行けばよかったのかもしれない。
 片浜はそう思っていた。
 昼を屋上で食べたあと、『いつもと違う場所へ行こう』、と佐那田さんが言ったときに、『外の農園以外にも校舎内で知らない場所があるからそっちへ行こう。ぬれるし、靴汚くなるし』と言えばよかった。
 赤い傘は、佐那田の傘だ。片浜は傘を持ってきていない。片浜の願いは空には届かず、天気予報を変更することはできず、今現在、大雨になっている。
 傘は佐那田が持っていた。片浜の頭が傘にぶつからないように、腕を上に大きく上げて傘を持っている。それは背の小さな子供が無理矢理電車の吊り輪をつかんでいるような、そんな印象を与えていた。だが、佐那田は傘を持とうとする片浜の言葉に耳を貸さなかった。佐那田は自分がこの赤い傘を持つことに執着した。
 あたりには、誰もいない。
 祭りの真っ最中に農園に行くような輩は、片浜達しかいなかった。
 雨音が赤い傘を叩く。
 上を見上げると、傘に雨粒が当たっているのが見えた。
 周りの草は上からの雨でこうべを垂れていた。その草の葉の下に、白が蝶が雨宿りしているのが見えた。白い羽に数滴雨をつけたまま、じっと動かずに留まっている。
 祭りの喧噪が、遠い。
 雨水のカーテンが自分の周りに張り巡らされ、祭りの音波を遮断しているようだ。
 雷が空に轟いている。
 傘が止まった。片浜に空からの水が降りかかる。あわてて片浜は傘の中に戻った。
 目の前は畑だった。キャベツがたくさん雨に打たれている。キャベツの溝に雨が流れていた。空が光り、一拍子遅れて轟音が轟く。
「いやー。すごい雨だね。雷もかんがん鳴ってるし、光ってるし」
「そうだね」
「しかし、雷の鳴る黒い空もなかなかいい感じだね。地上をここまで水浸しにするほどの水があの黒い空に蓄えられていることを考えると、空って大きいなって思う」
 突然、片浜は頭に冷たさを感じた。上を見上げる。そこには赤い傘はなかった。雨が片浜の全身に降り注いでいた。急速に制服が重くなっていくのがわかった。首を回して、周囲から赤い色を探した、背後に、十メートルほど離れた場所に赤が見えた。
 佐那田は大きな木の根元にいた。木は広葉樹のようだった。赤い傘は畳まれている。
「こっちおいでよ。ぬれないから。木が雨を防いでくれる」
 佐那田は顔をやや傾けて微笑んでいた。
「なぜ、俺をおいてそこに行くんだよ」
 そう言いながら片浜は木の根元へと走る。急いだために、スニーカーは完全に泥まみれになってしまった。制服のズボンの裾もどろにまみれている。
「あはは」
「あははじゃないって。汚れたら洗濯しなきゃいけないんだ。洗濯ってめんどいんだからな」
「ねえ、この木の上を見てみて」
「無視かよ」
 佐那田は唐突に上の方を指さした。片浜が言ったことはまるで聞こえていないようだった。さきに木の下へと移動したことに何の罪の意識も感じていないらしい。もうすでに興味が他のことへと移ってしまっていた。顔を上げ熱心に上を見つめている。
 行動の一つ一つにあまり一貫性がない佐那田を、片浜は許容していた。時々容認しきれないような行動にでることもあるが、それも愛嬌の一つだと片浜は考えていた。何かがおかしい夾林学園という閉鎖空間の中で、否、片浜が住まう慎重に計画されて造られた街全体の中で、佐那田だけが他の人間とは違うような気が片浜にはしていた。何がどう違うのかは片浜にも分からなかったが、何かが違う気がした。
『色のない映画の中の総天然色の俳優』
 そんな表現が片浜の頭の中に形成されたのは、文化祭の当日の朝だった。なんとなく霞がかかっている街。霞がかかっている学校。霞がかかっている生徒達。頭を固定したまま視野の隅を凝視するような、そんなまどろっこしい感覚。何かが仕組まれていて、頭は決して動かすことができない。そして、色のない場面の中で、たった一つのフルカラーの物体。画面を動くだけで片浜は魅了され、画面に釘付けになった。圧倒的な存在感。だが、その存在感は俳優が意図した物ではない。故意に行われた演出。たった一人の俳優を目立たせるためにすべての色を抜いたかのような演出に見えた。
 片浜は佐那田と同じように上を見上げた。
 水は降って来ない。木全体が雨に打たれ、葉が振動していた。何層にもわたる葉の傘が雨を防いでいた。耳を澄ますと、ぱたぱたぱたという音が聞こえてくる。木の先端は真下からでは見ることができなかった。
 視線を地面へと戻す。
 赤いバンダナが視野の端に見えた。佐那田は片足を木の幹につけていた。片浜の方を見て笑っている。何かをたくらんでいるような、そんな笑顔だった。
「ねえ、この幹、蹴ってもいい?」
「なんでだよ」
「蹴ったらどうなるのか、知りたくない?雨粒がざあっと降り注ぐのか、否か」
「そんなことやったら、全身水浸しになるぞ。傘なんて意味のないくらい水が降って来たらどうするんだ」
「じゃあ」
 佐那田は足を木から離し、片浜のほうへと歩いてきた。片浜の腕をつかみ、引っ張る。片浜は力に逆らわずに佐那田が引っ張るほうへと移動した。
 木の幹が目の前にあった。佐那田は片浜の左足首をつかみ、上へと引っ張りあげる。片浜はバランスを崩して後ろへ転びそうになったが、なんとかバランスを保った。佐那田は片浜の足を木の幹へと触れさせる。そのあとに、自分も同じように木の幹に足をかけた。
「じゃあ、いっしょに同時に蹴りましょう。それなら二人いっしょに濡れるから心配ないよ」
「濡れるには変わりないじゃないか」
「天文心理部部長として、命令します」
 佐那田ははにかんで笑った。灰色の景色の中でのすばらしき魅力的な笑顔。その笑顔は片浜が今日は濡れてもかまわないと思ってしまうほどに魅力的だった。
 もうすでに十分に濡れている。どっちみちどろが落ちるまで洗濯しなければいけないのは変わらない。なら、いいじゃないか。
 濡れることと佐那田の笑顔を見ることを秤にかけて、笑顔を見ることのほうを片浜は選択した。
「じゃあ、いっせいのーで、蹴るよ。傘は、差さないよ。この辺においとく。濡れるなら二人いっしょに濡れたほうが楽しいから」
 佐那田は傘をそっと木の幹にたてかけた。
「了解」
 片浜は足に力をこめる。全力で木を蹴ると、いったいどうなるのか。それが急に知りたくなった。もしかすると、蝶やら虫やらが落ちてきて、とんでもないことになるのかもしれない。片浜はそのあたりは想像しない事にした。何が起きたのかは、蹴ったあとに判断すればいい。
 雨はさらに激しくなっていた。風があまり吹いていないのが幸いだった。風が吹いていれば木の真下だとしても傘なしではいられなかっただろう。ぱたぱたぱたという音が強くなっている。地面にできた水溜りに追い討ちをかける雨水の音も激しく聞こえている。いつのまにか、祭りの喧騒はまったく聞こえなくなっていた。空が何度も光り、そのたびに腹に響くような低音を含む雷鳴が轟く。
 自分が学校の敷地内にいることを忘れてしまいそうな、そんな景色だった。
「いっせーの……」
 片浜と佐那田は同時に声を出す。二人同時に一旦木の幹から足を離す。
 片浜は力いっぱい蹴った。
 瞬間。
 掛け声の語尾は聞こえなかった。片浜の目の前は真っ白になり、軸足が痙攣して地面から離れた。片浜の身体は重力の束縛から開放された。片浜には何も認識できなくなった。ただ、強烈な光があたりに満ちたということしかわからなかった。とっさに佐那田の方を見ようとしたが、首は意思どおり動かず、目の前は白かった。
 片浜の身体は地面へと落ちた。だが、それは片浜には認識できなかった。片浜は意識を失っていた。片浜と佐那田が雨宿りしていた木は炎上していた。木を中心にして同心円状に草がなぎ倒されていた。木は炎上しながら片浜のほうへと倒れてくる。
 人影が、動いた。
 片浜に肩を貸すようにして、足を引きずりながら遠くへと逃げようとする人影が炎の中で浮かび上がっていた。雨は依然として土砂降りだったが、炎は雨の消火活動以上に燃えさかっている。木はゆっくりと倒れてくる。
 人影のすぐ隣に木は倒れ込んだ。火の粉が周りに飛び散る。燃えかけた葉が空に舞い上がる。葉は雨に打たれ勢いを消され、黒い物体となって周囲に散らばった。佐那田は片浜に手を回していない方の手で火の粉を降り払いながら校舎の方へと歩いた。
 佐那田の左足は完全に麻痺していた。棒のように固まったまま動かない。佐那田は左足を杖のように使って歩いた。片浜を肩に背負ってバランスを保つのは至難の業だった。ときどき大きくバランスを崩し、そのたびに地面へと倒れ込む。制服の色は茶色に染まっていった。雨と泥によりぐちゃぐちゃに濡れ、片浜はさらに重くなっていた。
 火の粉を振り払っていた佐那田の手が次第に動かなくなってくる。最初に指の関節が固まり、手首の関節が固まり、肘の関節へと麻痺は及んだ。
 佐那田は声を上げることができなかった。声を出そうにも声帯が麻痺していたからだ。口を開き、何度も声を出そうとするが言葉どころか音もでてこなかった。
 しかし、佐那田が声を出せたとしても事態は何も変わらない事は佐那田にもわかっていた。地面に打ち付ける雨の音が激しすぎて人のいるところまで聞こえそうにはなかった。こちらに祭りの喧噪が聞こえないのと同じ理由でこちらの声も祭りの方へは聞こえない。
 佐那田はただ前を向いて、まっすぐに校舎の方を見て歩き続けた。
 佐那田の進行方向に、土砂降りの雨の中から人が走ってきた。その人物は傘を持っていない。濡れるのも汚れるのもお構いなしのようにただまっすぐに走っている。佐那田の姿を認めたのか、その人物は走りながら手を振った。
 佐那田の動きに力強さが加わった。その人物の姿が佐那田にも見えたのかもしれない。倒れないように慎重に、そしてできる限りの早さでその人物の元へと向かっていた。
 佐那田の後ろでは、農園が燃えていた。キャベツ等の野菜も、温室も、すべてが炎に包まれ激しく燃えさかっていた。温室を構成していた支柱が黒いシルエットとなって浮かび上がり、ゆっくりとひしゃげて倒れこんでいる。農園は一つの大きな炎の三角形を形作っていた。
 走ってきた人物と佐那田との距離が二十メートルを切ったとき、佐那田の瞳から光が消えた。佐那田の全身が動作をやめる。支えようとする力を失った身体は、糸の切れたマリオネットのように地面に引かれるように崩れ落ちる。膝をつき、腰を曲げ、その上に片浜の体重が身体の半分にのしかかり斜めに倒れた。佐那田の顔が水たまりに触れ、飛沫がはねた。赤いバンダナが茶色を吸い続けていた。

 背柳はその瞬間をモニターで眺めていた。カメラは校舎内の他にもグラウンドや農場にも設置してあり、エリが学校の敷地内にいる限り状況を確認できた。エリは片浜という子と雨の中農場の方へと出向き、それが起きた。
 落雷だった。
 校舎内には避雷針が設置してあったのだが、農場にまでその効果は及んではいなかった。雷はよりによってエリと片浜が雨宿りをしていた木に落ちた。数万ボルトの電流が空から木を伝って地上へと流れた。雷の通り道となった空気は三万度近くにまで熱せられ破裂する。
 地上へと伝わった電流は抵抗の少ない道のりを探しながら同心円上に広がる。人間のような良導体を発見すれば、電流はその良導体の足から頭へと駆け抜けていく。
 二人が木を蹴ろうとしていたのが幸いだった。木を蹴った後に落雷したので、二人は木とは接触しておらず反動で少し離れた場所にいた。落雷の瞬間、背柳が見ていたモニターのカメラにも過電流が流れ、映像が消えた。背柳はすぐに佐々木に連絡し、農場へ駆けつけるように指示した。いかれていないカメラにモニターを切り替えると、その画面には、燃えさかる木と農場の中で片浜を運ぼうとしているエリが見えた。
「佐々木君、急いで」
 無線で佐々木に呼びかける。どんなに急いでもあと二分はかかるということを背柳は知っていた。
 背柳はコンソールを操作し、エリの素体の状況を示す画面を隣のモニターに表示させた。炎のせいで情報がやや乱れていた。エリは常に赤外線の形で自分の身体状況を放出している。その秩序だった赤外線を学園の敷地にくまなく張り巡らせた感知器が検出する。炎の影響を減らすため、背柳はモニターをダイレクトに表示させるのではなく、一度研究室のサーバーを経由して表示させるように調整を行った。
 数秒の後、エリの素体情報の詳細なデータが表示された。左足の関節制御機構が破損、過電流により右手も徐々に機能低下しつつある。あちこちが大電流の影響で機能不全を起こしていた。微妙な調整を司る機構の大半がランダムな動作を繰り返している。量子計算機の性質上、確率波を収束させてしまうため、活動中のエリの頭脳の状況はわからない。脳は電気的には死んではいないようだ。動力源である内蔵バッテリーは出力電圧を上下させながらも何とか動いている。
 エリは、倒れた木をなんとか避けて、校舎の方へとゆっくりと歩いていた。
 背柳は、モニターの前で口を押さえた。目は二つのモニターを行ったり来たりしていた。
「――こんな状態じゃ、動けるはずがないのに」
 背柳はつぶやいた。エリの素体に動ける要素は一つもなかったからだ。運動を司る微小機関を破壊され、感覚入出力のデータ流がまともに移動できない状態だった。
「あ」
 背柳はエリの素体の中心にある一つの装置の動作状況に目が留まった。感覚入出力を司っている制御装置。制御装置は完全に動作不能になっていた。エリは今、感覚入出力のデータをそのまま脳に流入させていることになる。
 背柳の脳裏に二回目の起動実験のことが思い浮かんだ。
――暴走。
 エリは今暴走している。それは間違いなかった。システムと素体の限界を超える事を行っていると言うことは、それはエリが暴走していることに他ならない。量子計算機が、中の見えないブラックボックスが、壊れつつある素体を制御して動かしている。小さな機関がそれぞれの目標を達成することで運用されている運動の処理を、脳が一手に引き受けて運用しているとしか思えなかった。一つ一つの機関は近接の機関としか連携をとれないため、近接の機関のほとんどが破壊されてしまった場合には、正常な機関も共倒れをする可能性がある。脳がすべてを管理することは非常に強力な演算能力が必要だが不可能ではなく、他から孤立した正常な機関を運用すれば通常不可能なほどの損傷だとしても動かせる可能性が少しは存在した。
 モニターの中に、佐々木の姿が映る。傘も差さずに大雨の中走っている。エリも佐々木の姿を見つけたのか、活動レベルが若干上がっていた。
 佐々木とエリの距離が二〇メートルを切ろうとした瞬間、エリの状態を表示していたモニターがブラックアウトした。何も表示されなくなった。ノーシグナルと画面には白い字が表示されている。それは、エリからの赤外線を受信できなくなったことを示していた。
 画面の中のエリは崩れ落ちていた。エリが泥の中に顔を埋めるのと、佐々木がエリの所へたどり着くのは同時だった。
「佐々木君、エリの調子はどうなの?どうなったの?壊れたの?エリは壊れたの?大丈夫?」
 画面の中の佐々木を見ながら背柳はマイクに向かって言った。画面の中の佐々木はポケットから端末を取り出してエリの身体を調べていた。背柳は自分も一緒に行けばよかったと後悔した。佐々木はエリの身体のあちこちを調べながらしゃべった。
「大丈夫です。オーバードライブのせいでかなり損傷が見受けられますが、頭脳には影響ありません。エリはエリとして修理することができるでしょう。それよりも……」
 佐々木はエリに折り重なるように倒れている片浜の手首に手を当てた。
「この片浜って子がかなり危険な状態です。脈はありますが、弱いです。死にはしないでしょうが急いで手当をしないと。エリと違って人間は部品の取り替えができないのですから」
 そのときになって、初めて、背柳は片浜の存在を意識した。エリの事で頭がいっぱいで片浜のことは意識の外にあった。片浜も落雷の二次放電で身体が浮き上がるほどの電流を身体に通してしまったのだった。そして、木が倒れ込んでくるときに、片浜はエリの救助で何とか燃えさかる木の下敷きにならずに済んでいたのだった。大電流を体の中に通せば筋肉は収縮して硬直する。人間であればあの時間帯にはまだ身体を動かすことはできない。
 片浜という子は佐那田が人間ではないということに気がついてしまったのかもしれない。
「そ、そうね」
 背柳は大きく首を振る。
 そのまま死んでくれればいいのにという考えを一瞬でも持った自分が嫌になった。一個人よりも軍の秘密の方を優先しようとした自分に腹が立った。
 背柳はすぐに軍の医療センターに一一九番した。
 そして、背柳は自分が人間よりも兵器の安否を気遣っていたという事実にしばし愕然としていた。エリと片浜を同列に考える自分がいたことに驚愕していた。
 画面の中に救急車の白い車体が見え、白い服をまとった救急隊員がエリと片浜の二人をてきぱきとかつ慎重に車内に運び込んでいるの様子が見えている中で、背柳はただ立ちつくしていた。
 私はエリを人間として見ているのだろうか。

 目が覚めると、そこはベッドの上だった。
 誰もいない病室で、真っ白な天井を見ていた。
 腕から点滴の管がのびている。
 片浜はゆっくりと辺りを見回した。清潔な病院の一室に見えた。医者ですらも一度も訪れていないのではないかと思えるほどのちりも汚れも存在していなかった。自分が寝ているベッド以外にはベッドはなかった。個室らしい。
 左足の感触がなかった。片浜は点滴がずれないように慎重に上半身を起こし、点滴をされていない右手で毛布をめくってみる。左足は包帯でぐるぐる巻きにされていた。右足の一部にも包帯が巻かれている。
「目が覚めたみたいね」
 ノックもなしにドアが開いた。白衣を着た女性が手に何か板状の物を持って入ってきた。入ってきた瞬間は医者か看護婦かと思ったのだが、それにしては何か奇妙だった。片浜には彼女が白衣に慣れていないような気がした。いや、慣れていないというよりは、白衣に着られているという感じだろうか。彼女には白衣が似合っていないのかもしれない。きれいに整った長髪が白衣の腰のあたりまで伸びている。足はすらりとしていて細い。医者は髪をあんなにも伸ばして白衣の外側に放置していてよかったのだろうか。片浜の頭に疑問が浮かぶ。
 女性は、片浜の状況を示すモニターにはまるで興味を示さずに、ただ片浜の方を見ていた。
「直接会ったのは、もしかして初めてかもしれないわね」
「誰、ですか」
 なんとなく顔を見たことがあるような気がした。それとも、誰かに似ているのだろうか。
「あっ」
この女性は、佐那田に似ていたのだった。知的な瞳が佐那田にそっくりだった。佐那田よりは若干背が高いようだ。その瞬間、片浜の中である程度の糸がつながった。瞬間的に記憶のイメージが掘り起こされていく。佐那田というキーワードから芋蔓式に記憶が沸き上がった。
 雨。大雨。傘。赤い傘。木。大きな木。光。強烈な光。
 意識の消失。
「佐那田さんは。佐那田さんはどうなったんですか?なぜ俺だけがここに寝ているんです?俺と佐那田さんは、あの木の下で雨宿りしてました。そして、あの光が、あれは雷だった。あれはすごい音がした。雷で光でぴかっと跳ねて……」
 片浜は自分が支離滅裂なことを言っていることを分かっていた。だが、喋れずにはいられなかった。自分は雷の直撃した木のすぐそばにいたのだ。電流は地面に伝わり、さらに自分に伝わり、そのショックで気を失ったということぐらい想像がついた。
「雷が、木に。炎が、燃え上がって、木が。木が、ゆっくりと崩れて倒れて、いや、まだ倒れてなかった。倒れそうで。燃えそうで。光が満ちて、足が跳ねて……」
「もういいわ。よくわかってるから」
 その女性は片浜の言葉を遮って言った。女性は真剣に片浜の瞳を見つめている。佐那田さんがもう少し大人になったらこういう顔になるのだろうかと、片浜は思った。女性が次の言葉を出すまで片浜はそのまましゃべらずに待った。
「ちょっといろいろと予想外のことが起きてしまって、私自身もいったいどうすればいいのかわからないんだけど、これから私が言うことは、すべて本当のことだから。だから、よく見て、そして聞いて。本当は、もっとちゃんとした別れの方法、あなたが何も知らずにすむ別れの筋書きを考えていたんだけど、それじゃ残念ながら間に合わないの。私たちが何もしゃべらずにいれば、あなたは心配するだろうし、他の人に噂を流してしまうかもしれない。それだけは避けたいの。それなら、あなたに真実を教えて口をつぐんでもらった方がいい」
 そういうとその女性は病室の入り口の方に何か身振りで指示をした。女性からの位置からは病室の外が見えたとしても、片浜からは見えなかった。片浜は病室の入り口を凝視した。女性の口振りからして、これから見る物、聞く物は佐那田の事に関する事ということは片浜にも予想がついた。片浜は上半身を起こしたまま、右手でベッドのシーツを握りしめたまま待った。どんな最悪な事態が来ても大丈夫なように最悪な方向へと想像をたくましくした。
「片浜君」
 片浜からはまだ何も見えない。だが、確かに病室の外の廊下に佐那田がいることは認識できた。佐那田の姿を見ようと自然と前に重心がかかる。佐那田の声が聞こえると言うことは、佐那田は意識不明になったわけでも、死んだわけでもない。それを考えると片浜は少し安心した。
 足音が聞こえる。床は堅く、廊下の足音は病室にまでよく響いた。
 足音は、三つ。片浜は耳に神経を集中した。三人が病室に向かっている。一人は佐那田であるということは声で確認済みだ。残りは医者か何かだろう。
 ドアの縁に手がかけられる。佐那田さんの手だ!片浜はさらに集中した。
「片浜君、私、あなたに伝えないといけないことがあるの」
 入り口から佐那田が見えた。ゆっくりと病室へと入ってくる。佐那田は学校の制服姿だった。泥もシミも付いていない新品同様の制服を着ている。赤いバンダナは、していない。バンダナ以外は、すべて最初にあった佐那田そのままだった。
 佐那田に続いて、二つ目と三つ目の足音の主が病室へ入ってくる。
 片浜は絶句した。
 目の前のことを夢だと信じたかった。本当に夢ならばさっさと目を覚ましたかった。だが、腕に点滴の液が入ってくる感触は本当だったし、左足の感触だけが欠如しているという事実も本当だった。
 二つ目と三つ目の足音の主は、佐那田だった。
 最初に入ってきた佐那田と全く同じ格好だった。同じ制服を着て、同じ顔をしている。よく似た双子というわけでもない。完璧に同じだった。知的な瞳も、形のよい唇も、佐那田と最初にあったときとまったく同じだった。
「彼女たちに直接話させた方がいいかもしれないわ」
 三人が歩いてくると、白衣の女性は場所を空けた。片浜の目の前に三人の佐那田が並んでいる。三人は同時に話し始めた。
「おはよう、片浜君。驚いたかもね。オリジナルの私の修復は非常に困難で、かなりの時間がかかると思う。思考と記憶の引継は行ったけれども、今の私たちは以前ほど人間らしくない。人間性を学習した部分がやや欠如したの。軍は片浜君がエリプロジェクトに貢献した部分は大きいと判断し、もし望むのならば、オリジナルの私をそのまま学校へ通わせてもいいという判断をしたわ。その代わり、君は義務を負うことになる。たとえどんな場所にエリタイプが出没しても、それに対して何の行動も起こしてはいけない……」
 片浜は最後まで聞いていなかった。三人の佐那田がでてきた時点で、片浜の思考は麻痺を開始していた。三人のぴったりと同調した説明で片浜の混乱は増大した。
 オリジナル、軍、エリプロジェクト。何のことだかさっぱりわからなかった。何を言っているのかさっぱりわからなかった。わかりたくもなかった。
 俺はただ、文化祭を佐那田さんと楽しもうとしただけなのに。
 日常の中のささやかな非日常に身をゆだねたいだけだったのに。
 佐那田さんの不可思議な魅力に惹かれていただけなのに。
 どういうことだ?
 片浜は安易な逃げの手段を使った。現実に顔を背けるのにはそれが一番だった。
三人の佐那田が喋り続ける中で、六つの瞳が片浜を見ている中で、片浜の意識は遠のいていった。


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創作日 7/31/2002
これは工房長co_metのオリジナルです。この作品の無断転載を禁じます。
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