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制御装置をつけたことにより、エリの起動実験は非常に順調に行われていた。通算三回目の起動実験のとき、エリは暴走の兆候を見せたが、すぐに感覚入出力を制御装置が制御したため何の被害もなかった。制御装置のことをふざけて佐々木背柳制御機関、略してS2機関と呼ぶ研究員もいたが、その名前はあまり定着しなかった。結局、制御装置は制御装置という名前で呼ばれるのが一般的になり、正式名称となった。
エリが夾林学園に転入する日があと三日後に迫っていた。制御装置を通じて仮想現実をデータとして与えることにより、エリは急速に人間らしくなっていった。量子計算機の高速な処理性能を利用して、本来は人間用に開発された仮想現実環境を通常の一万倍の再生速度で体験させ、人間社会の慣習や、言語表現を学ばせた。自分が幼稚園、小学校、中学校と、順調な生活を送ってきたという偽の記憶も植え付けた。結局想いを告げることの出来なかった中学生時代の初恋の思い出や、中学生の時に同じクラスになって結局転校するまで一緒だった親友という虚構も作り上げた。
量子計算機としてのエリにとっては処理の重さがまったく違う現実と仮想現実だったが、エリの意識としてはその二つの違いを見出すことは出来ないらしかった。仮想現実の中で出来上がったあらゆる人間関係は実際に存在しない。現実世界の中でエリがその穏やかな夢の中での人間に連絡を取ろうとすることはできない。背柳はエリが連絡を取ろうとする行動を規制するにはどうすればいいのか考えた。背柳には具体的な案は思いつかず、佐々木が制御装置に、そういう場合も暴走とみなすという定義ファイルをいれておけばいいと提案し、結局採用された。
今、背柳はエリと向かい合って座っている。
二人はファーストフード店でコーラを飲んでいた。エリをより人間らしくするために、ある程度のエネルギー供給を食物から行えることを可能にするエネルギージェネレータがエリの腹部には搭載されている。エリは赤いバンダナをして、ごく普通のそれなりのおしゃれをした格好をしていた。背柳が見ても、エリが人間ではないという証拠を見つけ出すことは困難だった。外部電力供給から内蔵バッテリーに動力源を変更し、やや普通の人間よりは重かったが、それは見て判断できるものではない。
ファーストフード店は、軍の敷地の内部にあった。働いているのも軍関係者であれば利用するのも軍関係者の店。ここならば、万が一暴走したとしても情報が外部に漏れる心配はない。
エリの素性はまったく軍に関係ないということに設定がされていた。そのため、軍の敷地にある店はエリが行けるはずのない場所だった。
この問題に関しても、佐々木考案の制御装置が役に立っていた。現実世界でエリが行動するときにおいて、エリが本来ならば見ることが出来ないはずのものを見てしまう危険性があるとき、制御装置が視覚や聴覚情報をあらかじめ入力されている仮想現実の情報と差し替えてしまう。現実世界からの感覚入力と仮想現実からの感覚入力を混合して入力することにより、見せたくないものは見せないという芸当が可能になっていた。
「なぎさ姉、コーラ、冷たくておいしーね。街の中は人がたくさんいて、暑苦しくてやになっちゃう」
「そうね」
エリは現在、自分の歳の離れた姉と一緒に街の中心のファーストフードで食事をしていることになっている。ときおり見える軍服の人間はエリにはおしゃれな若者にしか見えず、上空から聞こえる飛行機の爆音は店の喧騒にしか聞こえていなかった。
エリにとって、背柳は少し年の離れた姉という設定になっている。エリは生まれつき体に疾患を持っていて、その主治医が背柳ということになっていた。
「ねえ、なぎさ姉」
エリはコーラの氷をくるくると回しながら言う。エリがコップを回すとコーラの砕かれた氷はぶつかり合って鳴った。
「なに?」
背柳はコーヒーを口の中で転がすように味わいながら言う。ファーストフード店のアイスコーヒーはすごくおいしいわけでもなく、まずいわけでもなかった。規格化されたコーヒーの味にはなんのおもしろみも遊びも感じられなかった。
「明々後日、私、夾林学園高等部に転入するよね。もう入るつもりの部活は決めてるんだ」
「へえ、どこに入るの?」
「天文心理部。天文しながら、心理するんだって。学校の屋上から眺めることができるものならどんなものでもかまわずに、なんだろうという感情を持って誰かと語り合うんだって。おもしろそうでしょ?」
「天文心理部ねえ、ほかの高校にはそんな名前の部活はないけど、なんだか楽しそうな部ね」
天文心理部に入るしかあなたには選択肢が無いのよ。と、背柳はエリの無邪気に笑う顔を見て思う。エリには人間並みのかなりの権利が与えられているように見えるのだが、実際にはあまりない。天文心理部は夾林学園の直属の部であり、文化祭の時にのみ活動する部だった。文化祭のシーズンにしか集まれないような生徒が部員になっている。天文心理部にエリをいれておけば、不特定多数の人間との関わり合いが少なくなり、個々の事象がエリに与える影響を計算することが比較的容易になる。部活というものは人間関係が深くなるのが常である。エリに必要以上に親しくなる人間がいると、その人間がエリを人間ではないということを見破ってしまうかもしれない。エリが人間ではないということを見破ってもかまわないのは、エリの一ヶ月後に転入してくる少年だけだ。ほかの人間の場合は性格パターンが十分に取得できないためにデータとしては不完全なものになってしまう。
そして、天文心理部に所属している生徒たちは、なんらかの形で軍に関わっている家族を持つ。自らも軍関係の仕事に就きたいと思っている。そのため、エリには特別な監視が必要であると言うことを伝えておけばスムーズにことが進む。もちろん、エリが人間ではないということはいっさい話さない。
エリの制御装置は、エリがほかの部活動に興味を示そうとしたときに、情報をねじ曲げる。情報をねじ曲げることにより、エリの興味をその部活動からそらす。それを繰り返したことにより、現在、エリは天文心理部に興味を示している。
佐々木の制御装置は、エリの行動をある程度規制することができた。エリが自分自身を人間ではないと判断できうる情報はすべて隠蔽され、データ取得に対する不利益な要素はすべて除外された。
エリが部活動に天文心理部を選ぶのは必然だった。エリは天文心理部の部長となることまで決定されている。実際に転入してから、仮想現実により三ヶ月ほど学校と部活を経験させ、全員の推薦を受けて部長となるということがすでに決定済みだ。
エリには、選択の自由は存在しない。
選択の自由が存在しないのならば、自我を持とうが持ちまいが変わらないのだろうかと背柳は思う。
エリは、楽しそうに新しい学校への期待を話す。冷たすぎるコーラに顔をしかめたり、氷をかじって頭を押さえたり、ころころと表情が変わる。見ている方も楽しくなるような、そんな表情ばかりだった。もし、背柳が設計したとおりにただの情報兵器として完成していたならば、決してこのような表情をしなかっただろう。現在も、ハードウエアとしてのエリには意思表示として最低限の感情表示しか実装していない。
それなのに、エリは笑う。歌う。悲しむ。しかめ面をする。そのような表情を作るための疑似筋肉が存在しないにも関わらず、エリは表情を変える。完全に原因不明だった。
楽しそうに話すエリの行動のすべては完全に記録され、あとで研究をすることになっている。
背柳の腕時計が振動する。エリとファーストフード店に入ってから二〇分が経った合図だった。背柳はコーヒーを最後まで飲み干すと、立ち上がった。
「エリ、そろそろ行かなくちゃ」
「そうなの?わかった」
エリも氷で少し薄まったコーラを一気に飲み干して立ち上がる。エリは背柳のトレイを受け取り、二枚重ねてトレイ置き場へと持っていく。片手は額を押さえていた。片手で空のコップをくず入れに捨てている。
「どうしたの?頭押さえて。まさか」
エリは氷を捨てる氷入れに氷を入れていなかった。
「うん。一気のみで氷を全部口に入れちゃった。頭いたい〜」
エリは、いったい、なんなんだろうか。
背柳は頭を押さえるエリを見て思う。エリには味覚が備わっていないはずだった。氷を食べて頭が痛くなる感覚も無いはずだった。それなのに、エリは人間と同じような感覚を持っている。ここ二、三日、エリが現実世界で活動するようになってからよりはっきりとエリは人間らしくなっていた。
制御装置を通す信号は仮想現実でも現実でも同じ質の信号であるから、エリにとって仮想現実と現実の区別はできないはずなのに、なぜなのだろう。エリの仕様書をすべて持っているというのに、なぜ、こんなにもわからないことが起こるのだろう。
エリがファーストフード店の出口を通った瞬間に、背柳はエリの五感を制御装置を通した仮想現実へと切り替える。制御するもののいなくなったエリの身体はゆっくりと後ろへと倒れ込んだ。倒れ込むエリの身体を後ろからそっと抱きとめる。気を抜くと背柳も倒れてしまいそうだった。エリの身体は見た目よりやはり重かった。
あと三日で、エリの長期の稼働実験を行うことになる。十時間以上連続してエリを稼働させたことは今までなかった。現実で長時間過ごすことがエリに与える影響は未知数だった。生徒や学校、一般人というたくさんの不確定要素の中にエリを置くことによる影響も未知数だった。
エリがより人間らしく、無いはずの感覚まで備えていくようになるその行き着く先はなんなのだろう?
エリは兵器として使えるのだろうか。
白衣の姿をした人間が多数駆けつけてくる中、背柳はエリを抱いたまま考えた。
片浜が天文心理部に割り当てられた教室にたどり着いたのは、午前八時の十分前だった。いくら校舎が入り組んでいても、準備のために何度も往復した場所だったため迷わなかった。生徒玄関付近にある階段を上がって三階の左手に見える三年C組の教室。そこが今回天文心理部が展示をする場所だ。天文心理部は学園公認であり、イベントはいつも人気があるためにわかりやすい場所が割り当てられた。無計画に建て増された建築物のような校舎の中で、案内図があり生徒玄関から入ればたどり着くことのできる数少ない教室だった。
教室の前のドアを開ける。少しがたつきながらドアが横にスライドする。数人が片浜の方を向いた。どの人間も何かの道具を持っている。来た人物が片浜だと確認したのか、何も言わずにすぐに作業に戻っていた。片浜は小さく挨拶して教室の中へと入る。
鞄を隅に置きながら教室を見回す。
大きなパネルと、対面できるように二つの椅子を配置した机が五組。黙々とパネルを設置している数人の部員。部屋の壁にはたくさんの椅子が積み上げられていた。
片浜は佐那田の姿を探す。教室は普通の教室だったから、そんなに広くはない。佐那田は部長だから先に来ているはずだったが、ぱっと見た感じではいるように見えなかった。片浜はゆっくりと教室の中を移動して、それぞれのパネルの裏が見えるように視点を変える。
視野の隅に、赤い動くものが見えた。
その方向に顔を動かす。赤いのは佐那田のバンダナだった。佐那田は背伸びをしてパネルの上の方に何かを取り付けようとしていた。紙の端を人差し指と中指に挟んでいる。伸びきった指先が震えている。それに夢中で片浜が来たことに気づいていないらしい。小さい背の佐那田がぎりぎり届くか届かない場所に何かを張ろうとしているのに、誰一人として手伝おうとする人間はいないようだった。この光景だけを見て、佐那田が部長だということを理解することは難しい。ただの部員の一人のようにしか見えない。
片浜は佐那田の後ろへと回り込んだ。それでも佐那田は気づかなかった。片浜は手を伸ばして佐那田の持つ紙の端を持つ。そしてそのまま画鋲でパネルに張った。佐那田が振り返る。
「どうもありがと」
「いや、つらそうに見えたから」
目の前にいる佐那田の背がかくんと小さくなる。つま先立ちをやめるとやはり佐那田は小さかった。佐那田は片浜に向けて笑いかけた。
「おはよ。けど、ちょっと遅刻気味だよ」
教室の時計を見る。秒針を震わせている丸い時計は、午前八時を示していた。
「別に、遅刻してないけど。ぴったしだ」
佐那田はきょとんとした顔をして、自分のつけている腕時計を見た。
「いや、私の時計じゃ、もう三分も過ぎてる。私が部長なんだから、私の時計が業界標準だよ」
佐那田はパネルの表に回り込みながら言った。片浜も後につく。佐那田はミニノートをとりだして有機分子ディスプレーにケーブルを接続した。OSを立ち上げる。
「それに、みんなは集合時間の三十分前には集まってたよ。私は一五分前だったけどね。準備の時は早く来なきゃ」
片手で流れるようにコンピュータを操作しながら、佐那田は言う。
「そこのデータディスク取って。最終確認するから。文化祭が始まるまであと一時間しかないんだよ。急がなきゃ」
片浜は言われるままに机に置いてあるデータディスクを手に取り、佐那田に渡した。
「片浜君が早く来なかったから、データの最終確認が行えなかったの。ほかの人たちは自分の準備で大忙しだし、私、彼らのことをよく知らないし。やっぱり、一緒に準備してきた人と最終確認がしたかった」
片浜は辺りを見回す。どの部員も忙しそうに働いているが、互いに言葉を交わさずに黙々と作業をしている。佐那田に相談しに来る人間もいない。まるで、佐那田が部長であることをまったく知らないかのようだ。
片浜の頭に、夾林学園新聞部の取材の時にみつあみが言ったことが思い浮かぶ。
『天文心理部って、佐那田さんがくる前は、文化祭専用の部活動だったのよ』
天文心理部は、過去においては、協力も一切せずにただ教室が割り当たって、討論好きが勝手に集まる部だったらしい。部長というものも存在せず、顧問も存在しないが、内外からの注目度があったために学園の公認の部になっていたそうだ。みつあみにそのことを聞いたときに初めて、佐那田が自分よりちょうど一ヶ月早い時期に転校してきたばかりだということを知った。そのような転校してきたばかりの人間がなぜ今まで部長のいなかった部の部長という役職になったのか、それは新聞部にも謎らしい。
「ねえ。ほら、早くちょうだい。机の上にある辞書ディスク。早くしないと、始まっちゃうよ」
意識を教室へと戻す。背柳がコンピュータの画面を睨みながら片手を片浜の方へのばしている。片浜は自分がやるべきことをやるために机に手を伸ばしディスクを佐那田に手渡した。佐那田は矢継ぎ早に指示を出している。それに併せて片浜は身体を動かし要求しているものを手渡し、使い終わったものを元の場所へと戻した。二週間以上前から準備を一緒に手伝っていたために息はぴったりだった。
やがて、パネルが完成する。パネルのタイトルは、『幸福量保存の法則は成り立つのか否か』と、『空と宇宙の境界線はどこが一番適当か』というものだった。有機分子ディスプレーにはタイトルが動き、データ出力装置の動きも順調だった。無我夢中で佐那田の指示に従って手や身体を動かしていた片浜が顔を上げて周囲を見回すと、ほかの部員たちも自分のパネルを完成させているようだ。ほかの部員たちは、一人一つのパネルが割り当たっている。二人で一つのパネルというのは、片浜と佐那田だけだった。片浜は転校してきたばかりでちゃんとしたパネルの作成方法を知らなかった。そんな片浜に佐那田は「一緒にやろう」と言ったのだった。「誘ったのは私だし」と。
せわしなく動いたせいで、額に汗がにじんでいるのが自分でも分かる。片浜は大きく背伸びをして額の汗をぬぐった。隣で、佐那田がミニノートコンピュータの蓋をして同じように背を伸ばしていた。
教室にかかる時計の時刻は、八時四〇分。
「ねえ、屋上、いこっか」
肩を回し、教室の窓から外を眺めていた片浜に佐那田が声をかける。佐那田はすでに片浜の腕をつかんでいた。赤いバンダナの先端が片浜の目の前で揺れている。そのまま無視をしていると引っ張ってつれていかれそうな雰囲気だった。
「そだな。冷たい空気吸いたかったし」
片浜は佐那田の腕の力の流れに逆らわずに屋上へと向かった。
ルシャ側の戦況は厳しかった。
シュハラの自爆テロにより瞬間的にアメリカ軍の前線基地は壊滅状態に追い込まれたが、アメリカ本国まで続く海上のパイプラインは太く、アメリカは立て直そうと思えばいつでも立て直せる状況にあった。アメリカ国内の世論は、核による先制攻撃を行われたことによる怒りが充満し、報復攻撃を宣言する現大統領にとって有利なものとなった。自国の兵士をなるべく殺さないように、かつ、首謀者を白日の下へ引きずり出すということが最優先事項になっていた。アメリカ大統領は核攻撃には核攻撃という国内世論の圧力に屈せずに、今後の世界におけるアメリカ優位の状況を保持するために核の使用を見合わせた。核攻撃テロが行われた場合には、首謀者を匿っている国に核攻撃をしてもかまわないという前提を作るのは危険すぎた。アメリカが報復の対象にするのはあくまでも首謀者とその関係者であって、首謀者を匿う国の一般市民には被害を与えるつもりはないということを対外的にアピールする必要があった。
アメリカは何か新しいことをしようとしている。そのような噂がルシャ側の方にも情報として入ってきていた。核兵器ではなく、全く新しい概念の新兵器が初めてこの戦争に投入されるという噂だった。様々な憶測が飛び交っていたが、真実は知りようがなかった。真実を知ったときというのは、自分たちがその兵器の威力を見せつけられたときであり、それは自分たちの死を意味していたからだ。核兵器の代替手段として使われるものがどんなものであれ、それは極めて高い殺傷能力があるに違いなかった。そうでなければ、アメリカが新兵器を投入するはずがない。
アメリカの新兵器は、日本が作っているという噂があった。タクスチ教原理主義がこの国の実質的指導権を握る前は、日本はこの国に対して多額の援助をしていた。だが、多額ではあるが、その援助には返還義務があった。日本からもたくさんの技術者や商社マンがこの国へやってきていた。そのため、日本人の顔立ちを大半のこの国の人間は知っている。タクスチ教原理主義政府によりタクスチ教を信奉しない人間の入国、滞在が禁じられてから日本人はいなくなった。
ルシャは日本人というものを知らない。遠い東の端のアメリカの同盟国ということしか知らなかった。道であったとしても、それが日本人だと見分けるのは不可能だろう。日本人の顔立ちを知っている人間で、技術援助にやってきた時の穏和な日本人を知っているひとは、日本が新兵器の開発を担っているということを聞くとそれを否定する。彼らにとって日本人はよい意味で平和ぼけしていて、とても大量破壊兵器を作れるような国民性には見えなかったからだ。
ルシャは難民キャンプで生まれ、そこには生きるために生きるということしかできない現実が転がっていた。そんな不条理な現実から救い出してくれたのが彼だった。彼はミンストゥカにルシャを入れ、よい教育を施してくれた。ルシャには、日本人を見るような機会は全くなかったのだ。
自爆攻撃の志願者はたくさんいる。主に女が多かった。地上での自分の存在はあまり重要ではなく、死後のカルウの世界で、先に死んでしまった自分の肉親、恋人に会うことの方が重要だった。だが、現在の戦況では、自爆攻撃はあまり効果的な物とは言えなかった。相手の基地の内部まで潜入できなければ、爆弾を爆発させても相手にあまりダメージを与えることができなかった。シュハラのように敵陣奥深くまで潜入できれば、軍事施設を破壊することができるので効果的だが、何の訓練も受けていないミンストゥカ以外の人間にはそのようなことはできなかった。
本気になったアメリカ軍は強かった。やはり物量に圧倒的な差があった。シュハラの核自爆はアメリカ国内の世論を戦争回避へと誘導せず、戦争容認という方向へ誘導してしまったようだった。シュハラの自爆は長期的に見れば失敗ということになる。
では、シュハラはカルウのもとに行けなかったのか?
ルシャは考える。結局は失敗に終わったとしても、シュハラの行為はカルウに評価されるのか否か。シュハラは、いま、死後の世界で何を思い、何を感じているのだろうか。自分のやったことが失敗に終わったことは知っているのだろうか。
『カルウのための死は楽園である。聖戦に参加して死ぬことがその楽園への切符を手に入れることになる』
聖典ミンティオに書いてある言葉だ。
『我々は、カルウのためならば死ねる。いや、死ねるはずだ。何も報酬が無くても、食べるものも満足に無かったとしても、誇りさえあれば我々はどんなことでもできる。死ぬこともいくつかある手段のうちの一つしかない。死を、恐れるな』
シュハラと、コンタクトをとる方法は何もない。現時点のルシャには、シュハラのことを想像することしかできなかった。現世に生きていたときとシュハラが変わっていないことを信じて、シュハラが感じそうなこと思いそうなことを考えてみることしかできなかった。
だが、シュハラを想像するのは難しかった。
ルシャは、両手でレーザー兵器を抱えて建物の中で構えていた。廃墟に近いほど破壊尽くされた街並みが何もはめ込まれていない窓から見えた。通りには誰もおらず、動物もいなかった。爆撃の跡と思われる道路のえぐれた穴の近くに、草が生えていた。
音は、なかった。
静寂が、怖い。
静寂はいつも何かの前触れだったから。
今、ルシャは静寂の中にいる。その静寂は誰かが故意に起こしたものではなく、唐突に起きたものだった。沢山の人間がいる空間の中で、不意に訪れるような静寂。そんな静寂が、戦場の中に存在した。つい先刻までは激しい銃撃戦が繰り返され、戦車のキャタピラ音が地面に轟き、何かが壊れるような音が街並みに反響していた。爆撃による衝撃音と、破裂音と、炸裂音。それらが数時間前は平和だった街に鳴り響いていた。
それが、瞬間的に、止んだ。
攻撃してくる相手も、反撃している自分たちも、何も示し合わせていないというのに双方の攻撃が止んだ。それは合意無き刹那的な停戦であり、数秒か、長くても数分でうち破られる静寂だった。
そして、静寂はいつも攻撃側から破られる。攻撃側の瞬間的な静寂は、より強力な攻撃の前触れだった。このような静寂の後の戦いで、ルシャ達はどれほどの街を捨ててきたのか。ある時は援軍として駆けつけた無数の相手の戦車のキャタピラ音で静寂は破られ、街は原型を留めないほどに破壊された。ある時は戦場から避難する相手の兵士と車両の出す音で静寂は破られ、その後、上空からミサイルの雨が降り注いだこともあった。
カルラウシィはすでに放棄してしまっていた。本格的にアメリカ軍が侵攻してきたとき真っ先に最新型の空対地ミサイルで滅茶苦茶に破壊された。情報が漏れていたらしい。
ミサイル攻撃は完全な奇襲攻撃で、初弾が命中したことによるカルラウシィの死者は全体の三割を越えた。ミサイルは着弾した瞬間に無数の反発力の高い破片を高速度でばらまき、命中した付近の一定の大きさ以上の物を完全に破壊した。それは人間も例外ではなかった。破片は高速度で飛び回り壁で跳ね返り、ミサイルの爆発の余熱をため込んでいた。初弾に続く八のミサイル。それらはカルラウシィを死の世界へと変えた。都市中心部の生存者は五人。どの人間も重体だった。ミサイルが着弾した建物の内部にいた人間は全員死亡。八つのミサイルのうち二つは空中で爆発するようにコントロールされていた。ミサイルは空中の酸素を吸い尽くしながら致死性の高い高熱の破片を爆風でばら撒き、燃焼により周囲を無酸素状態に変え、急激な気圧の低下による竜巻を爆心地を中心に巻き起こした。竜巻はあらゆるものを空中へと巻き上げ、ばら撒いてあった高熱の破片が浮き上がったものをすべて砕いた。
ルシャと彼や、大多数のミンストゥカの兵士たちはたまたまカルラウシィにはいなかった。ルシャたちは、カルラウシィから離れた場所にあるカルウへの忠誠を誓うために彼が立てた巨大な礼拝堂に巡礼の旅に出ていた。巡礼の旅からカルラウシィへと帰る途中、進行方向の地平線に竜巻が生じているのが見えたのだった。地平線にあるというのにルシャから見ても大きく見えるほどの巨大な竜巻がカルラウシィのある方角で起こっていた。
ルシャたちがたどり着いた時にはすでに静寂がカルラウシィを支配していた。風はなく、空は雲一つなかった。直射日光だけが廃墟に何事もなかったかのように降り注いでいた。すべてが終わってしまっていたあとの静寂だった。ルシャが着いてしばらくしてから、カルラウシィの中心部にいなかった人間たちが続々と集まってきていた。戻ろうとして天を覆いそうなほどの巨大な竜巻が出現して大急ぎで避難した者、もともと中心部から離れて住んでいた者、たまたま中心部にいなかった者。どの人間もカルラウシィが地獄へと変わった瞬間を見ていた。『核攻撃されたほうがまだましな死に方をしただろう』と一部始終を目撃した人間は口を揃えた。
彼はカルラウシィの放棄を宣言し、その時からルシャたちは部分部分で応戦しながら国内を転々とすることになった。
そしてそのまま現在に至る。静寂と喧騒が繰り返される瞬間瞬間が常に戦場の日常。国に山岳地帯が多いことを利用し、主に山岳地方で戦いつづけた。ルシャたちは、地の利を活用しながら、一人でも多くのアメリカ軍兵士を倒そうと試みていた。
静寂が、怖い。
すべてが終わってしまったあとの静寂も、何かが始まる予兆の静寂も怖かった。
ルシャも他の兵士たちと同様に、死を恐れてはいない。他人の死には動揺することがあったとしても、自分自身の死については何も恐れていない。
ルシャは、何も為さずに死ぬことが怖いのだ。
レーザー兵器の引き金を引いて何人ものアメリカ軍兵士を殺したところで、それは結局のところカルウに対して何も為していないことと同じではないのか。俺は何年も特殊な訓練を受けた。聖典ミンティオについても誰よりも深く勉強した。それなのに、ある程度訓練を受けた人間ならば誰でもできるようなことばかり為していてよいのか。自分しかできないことを行わなければ為したことにはならないのではないか。俺はまだ自分しかできないことを為してはいない。
シュハラのように、自分しかできないことを為してから死にたい。そうしなければ、死後にシュハラに合わせる顔がない。
地面から鈍い振動を感じ、ゆるやかに静寂が破られる。ルシャはレーザー兵器のバッテリー残量を確認して身構える。武器を平行に構え、何が来ても大丈夫なように心身を緊張させた。
空が、地面が、空気が振動し、静寂は喧噪に上書きされた。喧噪はさらに大きな喧噪に上書きされ、それが何度も繰り返された。
エリが夾林学園に入ってから一ヶ月が過ぎた。この一ヶ月の間はすべてが計画通りに動いていた。エリは天文心理部に入り、部長となった。天文心理部は常に誰もいなかった。エリだけが毎日部室に通っていた。部室に通い、屋上へと向かい、また部室へと戻って放課後を過ごす。
背柳はエリの様子を研究所内のモニターで眺めることができた。モニターは全部で九つあり、七つが定期的に視点が切り替わる校舎内監視用モニター、一つが常にエリを映すために頻繁に視点が切り替わるモニター、もう一つが校舎全体をワイヤーフレームで表示し、校舎内のすべての人物がどこにいるかを把握できるモニター。校舎内には無数の小型カメラが備え付けてあり、生徒達や先生達には位置表示用超小型電波発信機が取り付けられていた。電波発信機は非常に小さく、人間の錯覚も利用して人間が視認できないように造られていた。このことにより、エリが出会うすべての人物についての情報をすばやく入手することができた。
エリは毎朝必ず調整を行う。背柳は佐々木とともにエリのメカニカルな部分や制御装置のプログラムに修正を加えた。今日も背柳は開かれた『棺桶』に横たわるエリを横目で眺めながら調整をする。
佐々木はモニターに表示されている制御装置に溜め込んであるエリの行動記録、感覚入力情報を見ながら作業に没頭している。制御装置は佐々木が考案した物のため、そこに記録されている情報の読み方は佐々木が一番詳しい。制御装置にはどのようなデータが量子計算機に流れ、それに対してどのような命令が量子計算機から発せられたかという情報が詰まっている。それらを佐々木が解読し、他人にもわかりやすい形に変換し、ほかの人間に二次的解析を行わせていた。最初は急な抜擢のためおどおどとしていた佐々木だったが、この一ヶ月で他人を率いるすべを学び、順調にプロジェクトをこなしている。
背柳は休憩用の椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。コーヒーは背柳用にちょうどよく温くなっており心地よい匂いを放っている。味もドリップコーヒーとしてまずまずの味だった。最近は細かな仕事は全部佐々木に任せ、背柳は全体的なことを指示していた。だが、エリの自我に関することについては誰にも任せず背柳自身が解析している。
佐々木の分のコーヒーをコーヒーメーカーから空いているカップへと注ぐ。コーヒーは湯気をたてている。背柳には飲めそうの無い熱さであることはその湯気の多さから容易に判断できた。
「コーヒー、淹れたよ。さめる前に飲んだら?一度休んだ方がいいよ。もうぶっ続けで三時間もモニターとにらめっこしてるじゃない」
「そうですか?じゃ、ちょっと休憩にします」
佐々木は立ち上がり、モニターの前から離れる。大きく背伸びをしながらテーブルを挟んで背柳の向かいに座った。佐々木は背柳の手からコーヒーを受け取り、ずずずとすすり、言った。
「しかし、一ヶ月でエリは驚くほど人間に近くなりましたね。矛盾行動も少なくなりましたし、最初は頻発していた小さな暴走も最近はめっきり減っていますし」
「ええ。そうね。最近、エリが本当に兵器として開発されたのか疑問に思うときがあるわ。こんなに人間のようなエリを、毎日餓死者が何十人もでるような発展途上国との戦争に送らなければならないのは、なんだか間違っている気がすることがあるもの」
佐々木のコーヒーを飲む音が止まる。背柳の方を見ている。
「背柳さん、それは――」
背柳は佐々木の言おうとすることを察し、佐々木の会話を手で遮った。
「いや、わかっているよ。エリは自我を持つ人工知能であるまえに、兵器だということは。兵器として生まれたエリは、どんなに人間に見えたとしても兵器でしかない。今私たちが夾林学園でデータをとっているのも、エリを長時間駆動させておくとエリにどういう影響がでるかという実験。この実験はこちら側に環境の制御権がない場合の戦場を想定している。わかってる。桂木君にさんざん言われていることだから。今のは、忘れて」
少し気まずい沈黙が流れる。二人とも自分のコーヒーをゆっくりと飲んだ。
「このことについて話すと、どこからか桂木君が飛んでくるかもしれない。だから、ね」
背柳は大げさに首を横に振って言った。動きの他に笑顔もつけた。佐々木が軽く笑う。雰囲気が軽くなる。さわってはいけない傷は瞬間的に閉じられた。
「あ、そうだ、背柳さんにはいろいろと話したいことがあったんです」
「それは、このプロジェクトに関すること?仕事に関することは、コーヒーを味わいきってからにしましょう。それなりにおいしくできたんだし」
「それが、プロジェクトのことと言えばプロジェクトのことですが、まあ、プログラムとかデバッグとか、そういうことと関係ない話なので、いいですか?このことについて話したからって、仕事量が増える訳じゃないので」
背柳はコーヒーを最後まで飲みきってテーブルの上に置いた。佐々木はまだ飲んでいる。佐々木のカップからは依然として湯気がでていた。
「いいわ」
「明日、転校生が来ますよね。夾林学園の高等部に。エリと個人的に接触する初めての人間です。ちょっとその子のことで聞きたいことがいくつかありまして。話せる範囲でいいので話してくれませんか?」
佐々木はカップを傾けてコーヒーを一気に飲み干す。細長い眼鏡が湯気で曇る。彼は空になったカップをテーブルの上に置いた。
「おかわりいる?」
「いや、いいです」
「そう。で、聞きたいことって、何?」
背柳は二つのカップをテーブルの脇に置きながら言った。佐々木のカップはまだ熱を持っていて熱かった。背柳のカップは冷たかった。
「この片浜圭って、誰なんですか?どういう経緯でエリと個人接触する最初の人間としてこの子が選ばれたのですか?わざわざこの子を引っ越しをさせてつれてこなくても、対象になりそうな同じ世代の子は夾林学園に沢山いるじゃないですか」
「予想通りね。けど、残念ながら、私も知らないの」
背柳はかるく微笑んだ。
「そうですか。けれど、背柳さんは知りたくないのですか?明日から文化祭まで、エリはほとんどをこの少年と過ごすのですよ。エリの唯一のプライベート空間である部室に少年と二人きりになってしまったら、我々には何をしているのか知る手段はないのですよ」
佐々木の言うとおり、部室はエリのプライベート空間として設定されている。
佐々木は真剣な眼差しで背柳の方を見ていた。背柳はそんな佐々木を見て小さく笑った。
「なんか、エリの父親みたいな言い草ね」
「そうですか?まあ、気になるものは気になるのです。安全保障上においても、相手がどんな人間かという詳細なデータが必要だと思います」
背柳が茶化しても佐々木は態度を変えなかった。
「わかってるとは思うけど……。明日からの一ヶ月はエリが未知のものに対してどのような反応をするかというテストでしょ。エリが未知のものに触れるとき、私たちもそのものに対して未知でなければいけない。多分、片浜って子のことを知っているのは桂木君だけだよ」
「そうですよね……」
そう言ってから佐々木は背伸びをした。
「じゃあ、どんな子なのか、推理しませんか?二人で。僕はあと十分くらい休憩するつもりだったので、背柳さんがよろしければ」
背柳は桂木に言われていた。片浜という子のことについては、どんな話題も推理、憶測してはならないということを。理由は知らされなかった。だが、その理由は推測することができた。佐々木はその事について桂木から言われていないということは明らかだった。それは桂木が佐々木よりも背柳の方を重要視しているということを意味している。
背柳はガラスひとつ隔てたエリを眺める。胸が規則正しく上下していて、呼吸をしているように見えた。今、エリは人間でいうところの睡眠をとっている状態にある。睡眠は必須の行動ではないのだが、より人間に近いリズムを作るために行われている。コンピュータでいうところのスリープ状態、低電力モードという状態に似ている。エリの寝顔は背柳にはすごく幸せそうに見えた。
これ以上佐々木に話させてはならない。
「いや。私そろそろ自分のことをやらなくちゃいけないし。この話はもうやめにしましょう。推理もなし」
「そうですか……」
背柳は椅子から立ち上がる。
「んじゃあね」
動きを真似するかのように少し遅れて佐々木が立ち上がった。
「さようなら、背柳さん」
背柳はコーヒーメーカーを両手で抱えて、足でゆっくりとドアを押し開けて部屋を後にした。
廊下を歩きながら、背柳は片浜はどういう子なのかという推理をはじめた。
屋上の空気は湿り気を帯びていた。
鉄製のドアを開けると、ひんやりとした風が片浜の頬を掠めていった。
空は、黒い。今にでも雨が降ってきそうな積乱雲が空いっぱいに広がっていた。風は冷たく心地よかった。額に浮かんでいた汗はひんやりと冷たくなっている。下のほうから祭りの喧騒が聞こえてくる。売り子の叫び声や、野外特設ステージでライブを行っているバンドの可聴域ぎりぎりの低音や、たくさんの人間の会話が寄せ集まった雑音。祭りはフライングスタートしたらしい。せっかく来てくれているお客さん達にな何もしないのはもったいないとでも思ったのだろう。音は大きかったが、祭りは屋上から見ると別世界のように見えた。音の集まりは、屋上に届くまでにろ過され、浄化されて、耳に心地よい祭りという抽象概念にまで昇華されていた。その心地よい騒音の中で、佐那田は手すりへとゆっくりと歩いた。
「んー。風が気持ちいいねえ」
佐那田は片手を上げながら身体をくるりと回して手すりをつかむ。風が佐那田の髪とバンダナを撫でている。髪の毛の一本一本を認識できるかのようなゆるやかさで髪は揺れていた。紺色のスカートもゆっくりとはためいている。
片浜は片手でドアを閉めながら、空を見上げる。目に雨粒が入ってこないのが不思議なくらい雨が降りそうな雲だった。上空の雲はかすかだがゆっくりと東へと動いていた。太陽があるはずの場所はぼんやりと光る雲があった。
「あと二〇分くらいで、祭り、始まるね。他はもう始めちゃったところもあるみたいだけど」
佐那田が校庭の方を見て言う。その顔は笑っていた。片浜は佐那田の隣に立った。はっきりと祭りの様子を眺めることができる。何をモチーフにしたのかがよくわからない出来の悪い茶色い着ぐるみが両手に焼きそばを持って歩いているのが見える。文化祭に訪れる人の朝食として買ってもらえると考えたのかもしれないが、誰も着ぐるみを相手にしていなかった。午前中だというのに人の流れは活発だった。この街が教育のために再開発されたと言うことがよくわかる。夾林学園が唯一の教育施設で、夾林学園の文化祭がもっとも大きなイベントだからだ。この日は商店街の人間も会社勤めの人間も臨時休暇、または休憩時間をもらって文化祭へとやってくるという。この街に住める条件は夾林学園の何らかの関係者であることだったからそれはある意味当然のことと言えた。
片浜は何も言わずにただ屋上から下を見下ろしていた。よく屋上へは来ていたが、こんなにも人が多い学校を上から見下ろしたのは初めてだった。実際にはボールを投げれば簡単に屋上に届くのに、なぜか片浜には屋上が祭りから隔絶されているように思えた。音以外の物はすべて屋上へは届かないような気がした。
風が気持ちよかった。雨が降りそうで降らないぎりぎりの天気は片浜は好きだった。空気は湿り気を帯び、それでいてじめじめとした不快感がない。湿度が高くても気温がそんなに高くなく、風のおかげで体感温度的には十分に過ごしやすい。
祭りのことを何もせずに、このまま佐那田さんとずっと屋上から祭りを眺めていたい。
片浜はそう思った。
何の責任も負わずに、ただ、ぼうっと、ときおり佐那田さんの顔を眺め、二人で穏やかに笑い、のんびりと空と地の間にあるものについて語る。それができたらどんなに幸せなことか。
たいていのイベントというのは、準備が楽しみの半分近くを占めている。準備が終わったのならもういいのではないか。そんな気がしていた。だが、それはあくまで気のせいでしかない。文化祭当日を佐那田といられるという権利を蹴ってまで屋上にとどまりたいとは思わなかった。
「あ、そういえばさ」
風でなびく髪を片手で押さえながら佐那田が片浜の方を向いて言う。
「ん」
「今日のテレビのニュース、見た?朝のニュース」
「いや、見てない」
朝のニュースを見られるほど片浜の朝に時間的余裕はない。テレビの電源をいれようと意識を支度からずらすだけで遅刻してしまうかもしれないほど今日の朝はばたばたしていた。いつもなら学校に八時四〇分に着く片浜が、準備に間に合わせるためとは言え八時に学校へと着こうとしたのだから朝は壮絶だった。思い出したくもなかった。一人暮らしの不利な点をまざまざと見せつけられてしまった朝だった。
「今日、自爆テロがあったんだよ。アジアとアフリカの中間くらいに位置する国で」
佐那田は真剣な目つきをして片浜を見ている。
「ふーん」
片浜は特に感情をこめずに相槌を打った。自爆テロなど片浜は特に何も思わない。政情不安な国では自爆テロなどしょっちゅうあることだからだ。さすがにアメリカ中心部で起きた今世紀二度目の大規模テロには不安を覚えたが、日本からとても遠い国としか認識できない名前を聞いてもどこだかわからないような国で起きた自爆テロならば何の不安も片浜は覚えなかった。自分が死んで相手を攻撃するという考え方に全く共感できなかったし、一般人を巻き込むことも大反対だった。だが、それは遠い場所で行われた自分たちと関係ない出来事に過ぎない。
「今回の自爆テロ、核爆弾だったの。テレビをつけたらどの番組もそのニュースしかやってなかったんだよ」
「核?原子爆弾とか、水素爆弾とか、そういうやつ?」
「そうそう。局所型っていう爆発のエネルギーがどちらかというと垂直に向かうタイプだったらしくて、そんなに広域には被害がなかったんだって。こんな感じで」
佐那田は空に向かって指さしながらゆっくりと腕を動かした。空に向かって絵を描いているようだ。その指の軌跡はかなり縦に長いキノコのように見えた。
「で、具体的には何が被害にあったんだ?もしかして、街の中で、どっかん?」
核爆弾という言葉で、片浜は佐那田の話に興味を引きつけられた。過去に攻撃として核を使ったのは、第二次世界大戦末期の日本へのアメリカによる投下、泥沼化していたパレスチナ・イスラエル紛争に終止符を打ったアメリカの戦略核投下の二度だけだった。となると、その核自爆は、核による悪意ある攻撃の第三回目ということになる。それは歴史的出来事ではないか。日常のように発生している自爆テロの一つではなく、歴史の教科書に載るくらいの事件だ。
テレビをつけたまま支度をすればよかったと片浜は激しく後悔した。佐那田から得られる情報は所詮又聞きであるし、何より、テレビならば映像を見ることができる。爆発の瞬間はテレビは納めることができたのだろうか。
片浜の中の野次馬根性が首をもたげていた。どんな大惨事があったとしても、自分と全く関係のない事柄ならば人間はおもしろがることができる。
「街の中じゃないよ。なんでも、アメリカ軍の前線基地内だって。アメリカの前線基地はその自爆テロによって壊滅状態。アメリカはテロリストをかばう国家は殲滅すると宣言したよ。こわいね」
真剣な目つきをしているが、佐那田にとっても世間話以上のことではないらしい。口調自体には真剣さがあまり見られなかった。佐那田からいろいろと聞くのもいいが、別に今話さなければいけない話題でもない。テレビでもっと詳しい情報が得られるのだから、家に帰ってテレビを見ればいいだけの話だった。
片浜は時計を見た。あと一〇分ほどで祭りが始まる。午前中は展示の場所にいなければならない。全部で三日間ある文化祭だが、すべての時間を展示の教室で過ごす人間はいない。天文心理部は文化祭の他の催し物を部員が見ることができるように、展示に常駐しなければならない部員を三人と決め、完全当番制にしていた。片浜は初日の午前中を当番にしていた。佐那田も同じだった。その代わり、午後からは佐那田と文化祭を見て回ることができる。初日の午前中は最初のため、人が沢山来ることは無いだろうと予測されていたので、当番は片浜と佐那田の二人だけということになっている。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
片浜はまっすぐに地平線を見ている佐那田に声をかけ、佐那田の右手をつかんだ。佐那田は片浜の手を見たが、何も言わなかった。片浜はゆっくりと佐那田の腕を引っ張る。佐那田は片浜に導かれるように屋上を後にした。
午前中、天文心理部の展示は大盛況だった。佐那田は来客者とテーブルを挟んで向かい合い、論戦を繰り広げた。片浜は来客者にお茶を配った。片浜が論戦に自信がないので二つのテーマの両方とも佐那田が論客となり、片浜はパネルの操作や調節などの論じること以外のすべてをやった。
来客者はさまざまだった。テーマが比較的簡単なものだったからだろう。大人びた小学生や身体的には棺おけに片足を突っ込んでいるような老人など、多種多様だった。『幸福量保存の法則は成り立つのか否か』よりも、『空と宇宙の境界線はどこが一番適当か』の方を討論のテーマにする客が多かった。天文心理部という名前につられて展示を見に来た人が多いようで、空や宇宙のことについての話のほうがその人たちの興味に合うのだろうと片浜は考えた。幸福量うんぬんの話は、実際には実験も証明も不可能なので敬遠したのかもしれなかった。
来客者と論戦する時、まず、佐那田はパネルに対する来客者の意見を聞く。パネル自体は客観的事実や仮説を数個提示してあって、どれか特定の考え方を擁護していない。来客者はパネルの情報から自分の意見を決める。佐那田は常にどんなに来客者の考えが正しく思えたとしてもそれに反論する立場をとる。来客者が意見を決めると、佐那田と来客者はテーブルに座り、片浜がお茶を出す。討論の当事者以外にもどっちがどういう考え方にしたのかがわかるように、有機分子ディスプレーにはそれぞれの立場についての説明が大きく表示される。自分も論戦に参加したければ、テーブルのどちらかに座って論戦をはじめても構わない。だが、来客者側は一般論を意見として採用することが多いため、それとは正反対の立場に立つ佐那田側よりも、大抵の人間は来客者側で討論に参加することになる。
佐那田は片足を組んで座る。片足を組んでいるがそれは偉そうにはまったく見えない。ごく自然な体勢のように見える。来客者がどんなに熱くなっても、佐那田は冷静に自分の論理を展開した。たくみな話術や身振りで自分の考え方を来客者に納得させようとする。熱心に話す佐那田の姿は片浜にはかっこよく見えた。バンダナの先が佐那田の頭の動きに合わせて揺れ、聡明そうな瞳はまっすぐに来客者を射抜いていた。瞬時に頭を回転させ、相手の論理の欠陥をすばやく見つけ自分の論理の補強に利用する。どんな来客者も佐那田の前には色あせて見えた。
はっきりと答えがわかりきっているテーマではなく、どのようにも解釈できそうなテーマを選んでいるため、佐那田が正しいとか来客者が正しいという答えは存在しない。どちらもそれなりに正しい。討論で大事なのは、自分の論を擁護し、いかに相手に納得させられるかどうかということだ。佐那田に納得させられて自分の論を捨ててしまう来客者もいたにはいたが、大抵は最後まで考え方を変えない。最終的には、どちらがよりもっともらしいかということを討論の周りに自然発生したギャラリーによる多数決で決定する。ギャラリーを納得させることも討論においては重要なことだからだ。論戦に佐那田に買った来客者には豪華粗品が与えられるということになっていたが、午前中の最後の来客者を除いて誰も佐那田には勝てなかった。
最後の来客者は白衣を着た男で、佐々木と名乗った。夾林学園生徒が催し物関係で仮装しているのかと片浜は最初思ったが、どうやら違うらしかった。来客者は自分の素性を言わなかったが、白衣の汚れ方の感じから、どこかの理系の大学の学生ではないかと片浜は推測した。
その男は聡明だった。佐那田が男の主張に対する反論を一つあげると、男はそれに対して三つの反論をあげた。議論している間に、本来は答えのでないはずの問題が、男が主張している事が答えであるかのような問題に聞こえてきた。佐那田は論戦の最後の方ではしどろもどろになっていた。議論を開始する前に決められた一定時間が終わったとき、佐那田はギャラリーの多数決を行わずに、自分の負けを宣言した。
男は豪華粗品の目覚まし時計を手に持って、にっこりと笑って、教室の後ろの出口から姿を消した。男が姿を消した瞬間に、近くの消防署が奏でる正午の音色が鳴り始めた。ただまっすぐとした音が祭りの喧噪よりも大きく学校を包み込んだ。そのサイレンが佐那田と片浜の当番の終わりを告げていた。サイレンが鳴り終わると雨の音が激しく聞こえてきた。サイレンが鳴っている間に降り出したのだろう、片浜には降り始めが分からなかった。雨はやや斜めに降り注ぎ、窓には水流ができあがっている。教室のドアには『お昼休み』という札をかけているため、今は教室の中には佐那田と片浜しかいない。
片浜は新しい注ぎたてのお茶を佐那田の前に置いた。佐那田は両肘をテーブルについてうなだれているような格好をしている。片浜が置くコップの音でゆっくりと顔を上げた。コップのお茶を手にとって口に付けた。
「失敗失敗。あの佐々木さん、かなり強敵だった。私全然かなわなかったもの。若そうに見えるのに、もしかしてかなりの歳を食ってたりしてね」
佐那田は笑っている。相手が強ければ強いほど、議論というものは楽しくなる。相手が弱ければ、知らず知らずのうちに自分も根拠のない論をもっともらしく論じてしまうことがある。相手が強ければ、ちゃんと筋道たつ論理を構築しなければ相手に一瞬でつけ込まれてしまう。
「そうだね。あんな奴が二〇代なはずない。人生経験を積まなければあそこまでの論理のきれにはいたらない。俺なら五秒でやられてたよ。向こうは自分の意見をがっちりと煮詰めてからここに来ているかもしれない。けど、佐那田さんは相手の意見と反対の意見を自分の意見としなければならないのだから、もしかすると同じ条件だったら佐那田さんの勝ちだったかもしれないな」
佐那田はコップを傾け、それにあわせて顔も傾けお茶を一気飲みした。透明なコップに入っている茶色い液体が、佐那田の唇に吸い込まれていく。
「そんなことないよ。たぶん、私が自分の意見を用意して、佐々木さんがその反対意見を自分の意見にしたとしても私は負けてる。どんな事を言ってもすべて言い負かされてしまうような感覚を味わったの、私初めてだった」
論理を構築できる能力があるというのに、佐那田の行動はいつも突拍子もなかった。一般的観点がどうであれ、片浜からはそう思えた。論理もなにもなく、ただ思うがままに行動しているように見えた。片浜にはその理由が分からなかった。もしかすると、片浜には分からないレベルでは首尾一貫しているのかもしれない。だが、それは片浜が決して知り得ることが無い話だ。分からないレベルならばどうやって分かる方法があるのだろうか。
ドアが開く音がした。片浜は教室の前方にあるドアに注意を向ける。今日の朝に見覚えのある三人が教室に入ってきた。天文心理部の部員だった。部員は二人の方を一瞥し、そのあとは二人がまるでいないかのようにパネルの準備を始めた。二人が設置した二つのテーマのパネルを奥の方へと移動させ、違うパネルを手前側に移動させている。その三人は午後からの展示の当番だった。三人は三人の中で会話の花を咲かせながら、時には笑ったりしながら準備をしている。どの三人も片浜と佐那田を見る気配がない。
佐那田はコップをくず入れとして使用しているビニール袋に投げ入れ、立ち上がった。
「あとは、あの三人がやってくれるでしょう。私たちはご飯をたべにいきましょ」
佐那田はテーブルを軽く叩く。雨よりも少し大きな音が教室に響く。三人は会話をやめた。
「じゃあ、私たち二人の当番は終わりね。あとはよろしく」
佐那田は三人がリアクションをする暇を与えずに、片浜の腕をとって教室の出口へと向かった。片浜は引っ張られながらも三人の方を見た。三人はきょとんとした顔を片浜に向けていた。片浜と目が合うとすぐに視線を逸らし、顔を逸らし、止めていた作業の続きを開始した。
「佐々木君。ついさっき、あなたエリのところへ行っていたでしょう」
背柳は九つのモニターを見ながら言った。今は昼休みで、エリは片浜という子と焼きそばやら何やらを食べ歩いているようだ。画面の中には楽しそうに笑うエリの姿が見えた。背柳も佐々木と一緒に昼を食べている。休憩時間だからといってエリが活動を停止するわけではないので、視界の隅には常にエリの姿が入るようにしていた。
佐々木は白衣姿でインスタント焼きそばを食べている。麺が本物と比べると縮れている。その縮れている麺にソースを混ぜて佐々木はおいしそうに箸で食べていた。箸にまとわりついている麺をひとまず食べ終わると、佐々木は背柳の方を向いた。口に青のりがついている。
「ええ。行きました。けれど、僕のことをエリは記憶していないので、ばれる危険性はなにもありませんでしたよ。エリは僕を見ても、制御装置が僕以外の人物に情報を変換しているために、僕だとは認識できません。大丈夫ですよ」
背柳は市販のサンドイッチと紙パックのコーヒーを目の前に広げていた。サンドイッチはちょうど半分を食べ終わったところだった。紙パックのコーヒーを買ったはいいが、日本茶系のものほうがサンドイッチに合っていたのではないかと背柳は思ったりもしていた。紙パックのコーヒーはどうも甘すぎた。
「で、エリの様子はどうだった?ここから一部始終を観察したけど、面と向かった印象はどうだった?」
「一部始終を見ていたのなら詳細は省きますけど、エリ、最近、以前と変わってきていますね。性格が変化してきています。性格というものはデータに現れないので、それまで変化に気づいていませんでした。どういう要因で性格が変化したのか、非常に興味深かったです。前と比べると、支離滅裂な部分が減り、社会性をある程度獲得しているように思えます。面と向かって話していても、エリが人間ではないと考える理由が見つかりませんね」
「やっぱり」
背柳はモニターで毎日エリのことを眺めているが、最近のエリから人間らしくない特徴を見出すことができなくなっていた。どこをどう見ても人間に見えた。仕草も、言動も、不自然なところは何もない。毎日行われるエリの素体のメンテナンス風景を見ていなかったら、エリを人間ではないと認識できなくなっていたかもしれない。それほどまでに完璧な人間の演技だった。片浜という少年に会った最初のころは精神的にまだ不安定で、突如暴走して制御装置の管理下に置かれることが少ないとはいえ何度かあったが、ここ一週間はそんなことは一度もない。
頭の回転はエリの頭脳が量子計算機であることを意識させるほどに速かった。だが、それはエリが人間ではないということを知っている側から見た視点であり、そんなことを知らない人間が見れば、エリは天才肌の頭の回転のよさを持っている人間に見えるだろう。人間の限界を超えるほどに頭の回転が速いわけではなかった。
背柳には、エリは連続稼動実験を開始したときよりも大人びているような気がした。いろいろなことを学び、やってはいけないこととやったら恥ずかしいことを学んでいるようだ。最初のときよりもやや思慮深くなっている。
屋上へ行く回数も減った。
片浜という子が来る前、エリは屋上へばかり行っていた。放課後には日課のように屋上へと出向き、ただ空を眺めていた。何も考えていないかのような表情で、ぼんやりと一時間ほど過ごしていた。背柳は何がエリを屋上へと駆り立てるのか疑問に思い、エリにそれとなく聞いたことがあったが、エリは自分でもわからないと答えた。空を眺めているとき、エリの身体の各パラメータはきわめて良好だった。空を眺めるという行為が何らかのプラスの影響を与えていることは確かだった。制御装置を使って故意にエリの屋上行きを阻止したことがあったが、そのときはエリは学校の玄関で暴走した。
屋上へ行く回数が減ったということは、空を見るという行為に代わる代替手段をエリは見つけたということなのだろうか。
「そういえば、エリと論戦したみたいだけど、エリの強さはどうだった?」
サンドイッチを小さくちぎりながら佐々木に聞く。佐々木はやきそばをすべて食べ終わるところだった。容器に少し張り付いた野菜を箸で取ろうと努力していた。二、三個の野菜をつまむことに成功したが、佐々木は残りの張り付いた野菜は手で直接取って口に放り込み、容器を近くにあったごみ入れに捨てた。
「論戦ですか?なかなか手ごわかったですよ。あのまま議論しつづけていたら負けていましたね。エリが負けているというように思う方向に議論を誘導したおかげで、エリの降参によって勝ったという感じです。僕は機械と議論して勝ったはじめての人間になったのかもしれませんね」
佐々木は苦笑をしながら話している。ある意味、佐々木の言ったことは本当だった。だが、そのように議論を誘導できるのは佐々木の才能だった。佐々木はエリよりも頭の回転が速いようだ。天才は飾らないというが、まさしく佐々木はそうだった。本人が何も言わなくても、周囲が勝手に天才と認めてくれるほどの天才。背柳は佐々木がうらやましかった。佐々木は、背柳と同じ歳になったころには現在の背柳よりも高い地位にいるだろう。背柳が打ち立てた最年少記録はすべて佐々木によって塗り替えられるだろう。
「あと、僕は、片浜という奴を観察しに行きました。直接見てどういう人間なのかちょっと見極めたくて」
「で、どんな子だったの?」
「普通の奴でした。普通の容姿で、性格も能力もいたって普通。ただの平凡な高校生ですね。心配して損しましたよ」
「ほんとに、エリの父親みたいね」
背柳はそう言うと、佐々木ははにかみながら照れ笑いをした。背柳はサンドイッチをすべて食べ終わり、サンドイッチを包んでいた包装を丸めてごみ入れへと投げた。包装はきれいな放物線を描いてごみ入れへと吸い込まれた。
ドアが開く音がした。
背柳と佐々木がドアのほうを見ると、桂木が煙草を口にくわえて部屋に入ってくるところだった。桂木は片手を小さく挙げて二人に向かって挨拶し、背柳の隣に座った。佐々木はすぐに立ち上がって棚にあるガラス製の灰皿を手に取り、桂木に手渡した。
「二人とも休憩時間ですか。ちょうどよかったです。エリのプロジェクトについてちょっとした連絡事項があったのです。あ、すぐに帰るのですが、ちょっと疲れているので座らせてください」
「いいけど。で、なんなの?なんとなく予想はついてるけど」
背柳は軽く体を持ち上げて桂木からほんの少し離れた。近く過ぎると煙草の副流煙をまともに吸い込むことになるからだ。背柳はコーヒーを飲みきり、ごみ入れへと投げた。だが、コーヒーパックの放物線はごみ入れの位置とは交わらず、パックは床に落ちた。その落ちたパックを近くに座っている佐々木が拾い、入れなおす。
「知っていると思いますが、アメリカ軍の前線基地で核自爆テロがありました。アメリカの世論は怒り狂い、首謀者を表に出せと騒いでいます。特定の個人を捕まえるという兵器の最高峰に位置しているエリが、予定を前倒しして戦場に配置される可能性が出てきました。そのため、日本自衛軍の上層部は、エリの長期稼動実験の終了を二日早めることにしました」
「二日早めるということは……」
佐々木がつぶやく。背柳はすぐに桂木が言ったことを理解していた。
「今日が長期稼動実験の最終日ということね。文化祭の第一日目でエリは姿を消すと」
背柳はモニターのほうへと視線を移す。画面の中のエリは片浜という子と三階の空き教室にいた。屋台で買ったやきそばもろもろを二人で食べている。時々窓のほうを指差したり、窓を開けて空を見上げたり、実に楽しそうだった。
「ええ。そのとおりです。文化祭は三日間ありますが、文化祭というものをエリが体験するには初日で十分でしょう。今日エリが帰ってきたら戦闘用のデータの入力を開始してください。アメリカ大統領はテロリストを匿う国には核の使用も辞さないと言っているので、アメリカ大統領が核を落とす前にエリを任務につかせる必要があります」
桂木は煙草を灰皿に押し付け、立ち上がる。
「それだけです。背柳さんも佐々木君も、兵器の総仕上げをきちんと行ってください。それでは」
桂木はそう言って走るように部屋から出て行こうとした。
「ちょっと待って、桂木君」
背柳が少し大きな声を出す。桂木はドアに手をかけたまま振り向いた。
「なんですか」
桂木はこっちは急いでいるんだといわんばかりの顔つきをしていた。ドアにかけた手がドアを小刻みに叩いている。
「いや、なんでもない。引き止めてごめんね」
桂木は何も言わずにドアを開けてそのまま消えた。廊下を走る音が背柳の耳にも聞こえた。
背柳は尋ねようとしたのだった。だが、桂木にとってそのことは迷うことではないため、尋ねてもきっと怪訝な顔をされるだけだと背柳は気づき、尋ねなかった。
桂木にとってはエリが兵器だということは自明であり、どんなに人間に似てようと見た目で違いがわからなくても、そのことに変わりない。見た目に違いがわからなければ、桂木はより完璧な兵器だと評するだろう。
だから、尋ねることはできなかった。
『エリを文化祭の最後まで参加させないのはかわいそうだとは思わないの?』
背柳はその質問を心の内にしまい込んだ。
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