5,準備と決行
| 「そこのテープ、とって。そうそう、それ。赤いやつ」 片浜は、部室で佐那田の手伝いをしていた。あたりの床には写真やディスク、ビデオテープが散乱している。部屋の真中にはコタツサイズのテーブルがひとつ。そのテーブルの上にはいつもは机の上に置いてある黒いノートパソコンが置かれ、マウスの置く場所がないほど乱雑に紙が散らかっている。ノートパソコンからは三本のケーブルが伸び、ひとつはコンセント、ひとつは学校に備え付けてある情報コネクター、三本目は部屋の隅にあるプリンターに伸びている。固定されていないので、油断すると足を引っ掛けて転んでしまいそうだった。 テーブルのノートパソコンの正面には佐那田が座り、片浜は佐那田が指示するいろいろなものをこの散らばった部屋から探し出すという手伝いをしている。 プリンターは一定の時間ごとに紙を吐き出し、部屋のエントロピーはとどまることなく増大していた。 部屋を片づけようにも、部室にいるのは佐那田と片浜の二人だけ。佐那田はテーブルから動くことができず、片浜は佐那田の指示するものを探し出すので精一杯だった。 佐那田は横から見ると恐ろしい速度でキーを打っている。ブラインドタイピングを完全に身につけているようだ。 しかも、片手。 片浜にはそれが信じられなかった。片浜自身、ブラインドタイピングにはある程度自信があり、資料作成は自分がやろうとした。だが、佐那田が片手で打つ速度は、片浜が両手で打つ速度を圧倒的に超えていた。 佐那田はキーボードを左手だけで打っていた。右手は、今回展示するためのパネルの作成に使われている。キーボードの中心に左手を置き、小刻みにキーの上をステップしながら打ち続ける。数字を打ち込むときにのみ、キーボードから左手が飛び跳ねた。顔は製作途中のパネルの一部のほうを見、画面は視野の片隅でしかとらえていない。 学校祭の準備だった。 天文心理部は、毎年どこかの教室を借り切ってパネル展を行っているらしい。さまざまな未解決な問題について、天文心理部なりの研究結果をパネルにして提示する。パネルの側には絶えず一人天文心理部員が待機していて、パネルを見にきてくれた人に、部屋にあるどれかひとつの問題の議論を吹っ掛ける。この活動は学校全体としても有名らしく、毎年著名な人物がこっそりとやってきて、論客としての立場を楽しんで帰るそうだ。 今年の学校祭が、あと二週間に近づいてきていた。 片浜が転校してきてから一週間が経ったことになる。 資料集めは片浜が転向する前にあらかたが終わり、後はどういう資料を使い、どのようなパネルを展示するかという問題だった。現在、資料をデジタルデータ化しているところで、パネルの本体を製作しているところだった。 パネルは、白い模造紙、厚紙、有機分子ディスプレーで構成される。白い模造紙に厚紙を張り、レイアウトを決める。有機分子ディスプレーとは、久しぶりに日本が先行開発した製品で、厚さ数ミリの折り曲げ可能なモニターの事だ。微弱な電流で有機分子を制御し、毎秒十コマ程度という遅いスピードではあるが画面の書き換えが可能で、電源を切っても十時間程度なら同じ映像を表示しつづけられる。 これを厚紙に貼り付け、制御する小型のデバイスも厚紙に貼り付ける。小型デバイスにはデータ出力端子がついており、データ出力端子は汎用性があるために来客者のパソコンや小型デバイスに情報を送ることができる。小型デバイスには有機分子ディスプレーでは表示が困難な動画データや三次元映像が含まれていて、自分が使い慣れているツールでそれらを参照することにより、来客者はより簡単に天文心理部員との論戦を楽しめるのだった。 論戦を白熱としたものにするためには来客者が部員と同じ情報を共有する必要があり、天文心理部が所有しているそのテーマについての情報をすべて参照可能にしておかなければならない。そこまでする必要があるのかと片浜は時々思うのだが、天文心理部に、いや、佐那田に妥協という単語は存在しないらしい。 「あ、こんどは、そこのディスクとって。黄色い字で『六月一三日取材』って書いてあるやつ」 片浜はディスクの山から目的のものを探し出すと、佐那田に向かって投げた。佐那田はキーを打つ左手の動きを止め、左手を必要最小限に動かしてディスクを受け取った。 「そうそう。これこれ。ありがと」 ディスクをすぐにノートパソコンの側面に挿入し、ディスクが回転し、読みとり音が部屋に響く。佐那田は再びキーを打ち始めた。 しばらくの静寂が続いた。 突然。 佐那田がゆっくりと立ち上がる。立ったまま佐那田の様子を眺めていた片浜は道を空けた。 「またか?」 片浜が聞くと、佐那田はすれ違いに、 「うん。頭が痛い。部室の外にでてくる」 と言って外へのドアを開けた。 ドアが変にこすれながら閉まる。 片浜は、部屋に散らかった紙やディスクのたぐいを片づけることにした。一つ一つ拾い、重要度の判定をして、すぐに使いそうなもの、そうでないものという二つに分類して、入れ物に分ける。紙は束にしてから軽くホチキスで挟み、ディスクは日付順に並べた。 五分が経った。 部屋の乱雑さが小さくなってくると、部屋が再び広く見えてくる。佐那田はマウスを使わないのだが、片浜はマウスが使えるようなスペースをテーブルに確保し、昼頃にコンビニで買ってきた袋からペットボトルのミネラルウォーターを取り出してマウスの隣に置く。 佐那田は戻ってこない。 佐那田は、いつも外にでてから七分くらいで戻ってくる。部室に入ってからいつも一八分くらいで頭痛を訴える。しばしの間外にでていると頭痛がやわらぐのだそうだ。頭痛のおとずれはいつも突然で、前触れがない。少なくとも、片浜から見るとそうだった。普通に部室で作業していて、一八分位すると唐突に佐那田は立ち上がる。十八分という中途半端な数がわかるのは、もう何度も繰り返し起きていることだったからだ。 何が原因なのかは片浜にはわからない。 佐那田さん自身は理由を知っているのだろうか? いつも、佐那田は頭痛が起きたときに非常に苦しそうな顔をする。最近は、あまりに何度も行くのを片浜が心配しているのがわかっているからなのか、苦しい顔をしないようにはしているようだが、苦しさを隠す顔がまた苦しそうだった。 テーブルのリモコンを手に取り、部屋の隅のポータブルテレビの電源を入れる。電波の感度が悪いのか、画質は非常に悪く、画面の中央に人がいるということしかわからない。他のチャンネルに変えてみるが、どのチャンネルも似たようなものだった。色がついているかそうでないかくらいの違いしかなく、変に音量の大きい雑音がスピーカーから流れ、見るに耐えない。 見ようと集中しなければ見ることができないテレビは、すでにテレビの定義から外れていると、片浜は思う。 テレビというものは、積極的に情報を入手するためのメディアではなく、受動的に情報を入手するためのメディアであり、ぼんやりと眺めてぼんやりと頭に情報が入ってくるようなメディアだ。それなのに、見ようという意思が強くなければ見られないというのは、間違っている。 リモコンでテレビのスイッチを切る。 周りの環境、部屋の様子はテレビをつける前と同じ状態になったはずなのに、この静けさは何なのだろう? 雑音が消えると、恐ろしいほどの静寂が部屋を包みこんでいた。部屋のチリが積もる音が聞こえてきそうなほど静かだった。 チリがゆっくりとテーブルや自分の体、部屋中に積もっていく音。 瞬間、部屋に雑音が満たされる。 音源を見ると、そこにはテレビがあった。相変わらず汚い映像が流れていた。 無意識にテレビのリモコンを押してしまったらしい。すぐに消そうかとも思ったが、片浜は直前に存在していた静寂が怖かった。完全な静寂は幻聴を作り出しそうで怖かった。 雑音が流れつづける。 時折意味のありそうな音が混じるが、たいていの場合、ノイズだった。ノイズの中に情報が埋もれているのだろうが、片浜はノイズを聞き分けてまでテレビを見ようとは思わなかった。 雑音が流れつづけた。 なぜか、片浜には雑音が心地よかった。 太陽が、眩しい。 真上で輝く太陽は、ルシャ達を容赦なく照りつけている。ルシャは自分の持つレーザー兵器にすでに何滴もの汗を滴らせていた。 草むらから大使館を見る。彼が書いたとおり、大使館の門には衛兵が二人いた。自動小銃を構えている。二人の銃口は上を向いていた。 ルシャの隠れている茂みは、大使館からは見えない。衛兵から見れば茂みがあることはわかるだろうが、誰かがいるということはわからないだろう。 突入隊は、全部で十五人。そのうち、ミンストゥカ出身の兵士は五人だった。他の十人はミンストゥカ出身ほどの腕前はないが、それなりの訓練を受けた神学校の出身の人間だった。 腕につけた時計を見る。 突入まであと五分だった。 まず、二階に催涙弾を投げ込む。二階で起きた出来事に衛兵が気を取られた瞬間に、衛兵を倒し、十人が一斉に一階からなだれ込む。大使館を破壊するだけならば爆弾があれば十分だ。誰かが爆弾を抱えて自爆をすればいい。兵士の中に死を恐れているものは一人もいないのだから。死は終わりではなく、始まりだと彼らは信じている。死は、カルウの下へ行く最短距離なのだから。だが、今回はただの殺害が目的ではない。西側資本主義に対する、はっきりとした宣戦布告の意思表示を兼ねている。ルシャの先輩達が自爆テロを行ったことで、資本主義諸国はこの国への攻撃を宣言した。ルシャ達は、これがただの攻撃ではなく、戦争であることを宣言しなければならない。 「我々は、この攻撃が戦争であり、お互いの血を血で洗う戦争である事を示さなければならない。これは、我々の聖戦であることを示さなければならない……」 ルシャは、ぼそぼそとつぶやいた。そのつぶやきは誰にも聞かれてはいない。ルシャは自分自身に向かって言っているのだった。 ルシャは、まだ、一度も実戦を経験したことがない。命と命のやりとりを経験したことがない。 自分は果たしてできるのだろうか。 思考の空白ができると、とめどもない不安が心を支配してしまう。だから、ルシャは常に考え続けなければならない。カルウを信じ、己の力を信じなければならない。 彼に一番頼りにされているのは、俺なんだ。 レーザー兵器の銃口を見つめながら考える。 自分は絶対に失敗しない。これはカルウの意志であり、失敗するはずがない。カルウの加護があれば、自分は死なない。 レーザー兵器の出力を最大に上げる。微かに銃身が振動を始めた。 三,二,一. 時計をじっと凝視する。 五分経った。 爆音。炸裂音。銃撃。 大使館の二階付近で窓ガラスの割れる音と、何かが噴出する音が聞こえてくる。 衛兵が何事かと振り返った。 瞬間、ルシャは通りへと飛び出す。飛び出しながらレーザーの引き金を引く。レーザーは衛兵の一人の手を貫く。衛兵は鮮血とともに自動小銃を床へと落とす。もう一人がルシャの存在に気づき銃を構える。 ルシャは横へと飛び、転がりながら衛兵の足を狙う。レーザーは音もなく衛兵の左すねを貫いた。衛兵は足を押さえてうずくまる。その隙にルシャと同じように周囲で構えていた兵士達が門へとなだれ込む。ルシャは立ったまま腕を押さえている衛兵の顔面に膝蹴りを入れ、先陣を切って大使館を襲撃した。 大使館の中は多数の銃声が響いていた。 吹き抜けの二階への階段に、ルシャと同じ戦闘服を着た兵士が血だらけで倒れていた。ルシャはすぐに一緒に突入した兵士に血だらけの兵士を運び出すように指示する。 大使館側はルシャ達が襲撃をするのを知っていたらしい。予定では、衛兵以外に相手側に戦闘要員はいないはずだったからだ。どこからか情報が漏れたのだろう。 だが、今は情報がどこから漏れたかというのは問題ではなかった。ルシャは任務を成功させなければならなかった。どんなに不利な状況でも、どんなに不可能だとしても、退くことは許されない。 彼が襲撃の成功を望んでいるのだから。 カルウが襲撃の成功を望んでいるはずだから。 情報が漏れているとすると、大使館には要人はいない可能性が高い。要人がいなければ襲撃は失敗したことになる。 情報がどの程度漏れていたのかということが問題だったが、今はそれを確認している余裕がない。今はただ当初の計画通りに襲撃を行うだけだった。 二階へと駆け上がる。銃声ははじめよりは収まってきていた。埃が舞っていて館全体の様子が見渡せない。二階から侵入した兵士達が派手に建物を壊したからだろう。 見取り図通り、外交官のいる部屋へと向かう。ドアに突進しながら、ドアの鍵の周囲を円形にレーザーで焼き切る。焼き切ると同時にドアを蹴る。ドアはあっさりと開いた。 視界に、銃口が映った。 銃声が響く。 反射的にルシャは重心を左へと傾け、倒れ込みながら部屋へと侵入する。身体を転がしながら銃口に向かってレーザーの引き金を引く。相手の持つ銃が赤熱した。相手は銃を手放す。左足で前方へと飛び出し、相手のみぞおちにひじ鉄を食らわせる。瞬時に右足で床に転がっている銃を蹴る。銃は床を滑りながら部屋の隅に追いやられた。相手はうめき声を上げて倒れた。 さらに腹を蹴飛ばし、レーザーの銃口を相手の額へとねらいをつける。 後ろを振り返る。ルシャの背後についていた兵士は入り口付近で倒れていた。部屋にいた人物が撃った弾が当たったらしい。腕を押さえているところを見ると、命に別状はないようだ。 意識を目の前で倒れている男へと戻す。 男は背広を着た典型的な外交官タイプだった。食べるものに困ったことがなさそうな体型をしている。ルシャの方を見ずに、その大きな腹を押さえてうずくまっている。 こいつが食っていた分を、他の人間に分け与えれば少なくとも三人は餓死せずに済んだ……。 ルシャはただ男を見下ろす。 「こっちを見ろ」 腹を再び蹴る。男は仰向けになった。 「ぐ」 訳のわからない声を出して、男は腹を押さえている。男の目が開く。 「おまえ達は、何だ?こんな小国の大使館を襲撃して何の得になるんだ……」 「何の得、か。おまえ達はそうやって損得の勘定しかしないんだな」 ルシャは男の眉間に銃口を突きつけたまま静かに言う。 「……。アメリカが黙っていると思うのか?こんなことをやれば、この国は火の海になるのは分かり切っているというのに。何故だ?」 男は床に手をついてゆっくりと立ち上がる。ルシャは男の手を蹴った。肩を床にぶつけ、男は苦しそうに呻く。 「動くな」 ルシャはそう言いながら、男の額にレーザーの銃口を押しつけた。男は自分の額に触れる銃口とルシャを交互に見比べた。 「もうすぐ、軍隊がやってくるだろう。おまえ達に逃げ場はない。逃げたらどうだ?」 銃口を突きつけられているというのに、男は全くひるまずにルシャを見据えている。その目にはおびえの色は見られず、奇妙に自信に満ちていた。 ルシャにはまったく理解ができなかった。 外交官というのは、大使館という自分の城を持った臆病な特権階級ではなかったのか。 この男の目は、外交官というよりも、死をすでに覚悟した兵士の目だ。 「おまえ、自分の立場をわかっているのか」 「立場?」 男は再び立ち上がろうとする。ルシャは手を蹴ったが、男の手はびくともしない。男はひたすらにルシャを見つめたまま、立ち上がった。 「動くな!」 だが、男はゆっくりと右手を自分に突きつけられている銃口へと持っていく。 そのまま銃身をつかんだ。 「少し、ぶれているぞ。ちゃんと狙わなければ、レーザーで人を殺すことはできない」 そう言いながら、男は銃身を移動させて銃口をぴったりと自分の額に押しつけた。 外が騒がしくなってきていた。沢山の車の音と、怒号、銃声。軍隊が到着したのかもしれない。 「おまえは、何なんだ。おまえは、ただの外交官なはずだ」 冷や汗がルシャの背中を伝い降りる。レーザーを持つ手が震えそうだった。 「早くしないと、本当に逃げられなくなるぞ。いいのか」 何故、こんなにもこの男は自信を持っているのか。 自分の命が俺の引き金にゆだねられていることに何も感じないのか。 何故、死を恐れないのか。 これでは、こんな男を殺しても、それは資本主義諸国に対する宣戦布告にはならないのではないか。 何事も損得で考え、神の教えを考えない人間達に対する宣戦布告にはならないのではないか。 さまざまな考えが、ルシャの頭を渦巻く。 考えが渦巻き、ルシャの心に瞬間の空白が生じた。心の空白は身体の隙を生む。 男はそれを見逃さなかった。つかんでいる銃身を上へとひねりながら持ち上げる。ひねりあげながら足払いをかける。ルシャの体が宙に浮き体が腰を中心に回転した。バランスをとろうとして、つい銃を手放してしまった。男はルシャのみぞおちに真正面から蹴りを入れる。押し出すような蹴りでルシャな後方へと吹っ飛んだ。変な態勢で回転しながらルシャは床に叩きつけられる。男は銃をすぐに反対の手に持ち替えてルシャに銃口を定めた。 体の痛みとともにルシャは自分の置かれた状況を悟る。とっさに両手を床につけ、反動で立ち上がろうとする。 「動くな」 男が言う。ルシャは半立ちの状態で硬直した。 腹が出っ張り、あきらかに食べ過ぎな体形。『私腹を肥やしている』という表現が一番似合いそうな、頭も動きも鈍そうなこの男が、ルシャの銃を奪い、先ほどとは立場が逆転させてしまったことはルシャにとって信じがたいことだった。 一瞬の隙を突くという行動が一番不可能そうな体形をしているというのに。 油断した。 ルシャは体を硬直させたまま考えた。 「立場が逆転したようだね。おまえが私をすぐに殺さないからこうなる。どうする?もう軍隊はこの大使館を囲い込んでいるぞ?おまえたちの仲間は全員射殺だろうな」 どうすればいい。この状況を打開するには、どうすればいい。 「テロリストなんて、所詮こんなものか。目を宗教という名のカーテンに覆われて盲目になってしまった連中。建物の雰囲気を見れば、情報が漏れているなんてわかるというのに、無理やりに突入した連中。馬鹿だよ」 レーザーは普通の銃とは違い、弾という概念があまりない。撃ったというよりは照射したというイメージが強い。引き金を引いた瞬間に避けたとしても、避けた方向に銃口を向けられたら向けられた瞬間に負傷してしまう。 どうすればいい。 顔は動かさずに視線だけを移動させる。 本棚。机。いす。ペン立て。 大した物はない。 「おまえ、特におまえ」 男は銃を持っていないほうの手でルシャに指を指す。 「どうしようもなく馬鹿だな。殺れるとき殺らないのだから。俺が外交官だって、未だに思ってるんじゃねえの?襲撃情報があるというのに、逃げない外交官がどこにいる?考えが甘いんじゃねえのか。俺は外交官でもなんでもない。ただの雇われの兵士さ」 手の届く範囲に何か投げられるものは。 視線を下にさまよわせる。 ない。 「馬鹿。おまえはとんでもなく馬鹿。戦闘技術は、まあ、あるだろう。だが、精神的に甘いのが致命的だな。そういう甘さじゃ、テロリストなんてできない。瞬間でも殺すのをためらう人間はテロリストになんてなれない」 どうすればいい。どうすればいい。 死は怖くない。それは始まりだから。 だが、自分が何もせずに、何も成さずに死ぬということがルシャには耐えられなかった。 自分の人生はなんだったんだ? 自分はカルウに何も貢献していないじゃないか。 「おまえは、馬鹿だよ。俺みたいな奴に殺されるんだから。大義も何もなく、ただ、殺される。馬鹿だよ」 何度も男の口から発せられる『馬鹿』という言葉。 罵倒の言葉。 今まで一度もかけられたことのなかった言葉。 気がつくと、体が勝手に男のほうへ走り出していた。 前傾姿勢から重心を移動させて、立ち上がってまっすぐに向かう。 「やはり馬鹿だよ。おまえは」 男のにやけた笑いが見えた。 男が、引き金をひいた。 わき腹が、熱い。焼けるように熱かった。いや、実際にルシャのわき腹は焼けている。レーザーは何かを焼き切るのに使うのが主要な用途だ。痛いというよりは、熱い。 熱い。 ルシャはかまわずに突進する。射撃軸上から少しもずれないように突進する。銃口と傷を結ぶ線から体を避けようとすると傷口が広がってしまう。レーザーは、銃というよりは、非常に長い剣、目には見えない剣と考えたほうがよかった。 熱い。 幸い、男はレーザー兵器の扱いに慣れていないようだった。引き金を引いた人間が扱いになれた人間であったなら、撃った瞬間に銃をある程度動かし、傷口を広げようとするだろう。わき腹に命中しているのなら、横に薙いでもいい。そうすれば、相手の体が半分に分かれる可能性だってある。 熱い。 男もそのことに気づいたらしい。男は左に薙いだ。ルシャにさらなる熱さが加わる。右わき腹を貫通していたというのに、男はルシャから見て右に薙いだためルシャの体はちぎれずに済んだ。しかも、男はあまりにも速く薙いだため、十分に長い照射時間が得られず、射撃軸線が体の外側にずれただけで致命傷を与えるには至らなかった。 「くそっ」 男が叫ぶ。男はレーザー兵器を部屋の隅に放り投げた。男は瞬時に部屋の隅に走る。先ほどルシャが蹴飛ばした銃が部屋の隅に転がっている。男は体を転がしながら右手で銃をつかみ、構える。 「じゃあな」 男が引き金に手をかける。 銃声が鳴った。 男の身体は軽く跳ね、壁に衝突する。 銃声は単発音ではなく連続音だった。 男を中心として、血溜まりが広がっていく。男の手から離れた銃は、少し遅れて壁にぶつかり二つ音を立てた。 ルシャは男が跳ねた方向と反対、弾が飛んできた方向を見る。開け放たれているドアから、自動小銃を持ったシュハラが駆け込んできた。左二の腕あたりの服が赤く染まっている。シュハラは部屋を見回してルシャの姿を認めると駆け寄ってきた。 「立てるか?」 「な、なんとか」 「襲撃の情報が漏れていたみたいだ。一刻も早くずらからないとヤバイ。もうかなり軍が集結してる」 シュハラは先刻まで男だったものを一瞥し、ルシャに手を差し出した。ルシャはシュハラの手を握りゆっくりと立ち上がる。脇腹の傷は、レーザーが傷口を焼いてしまったからなのかあまり出血をしていなかった。部屋に転がるレーザー兵器を拾おうかとも思ったが、脇腹の痛みのせいでまともに兵器を扱えそうにないことはルシャは自覚していた。 ぎゅっと目を瞑り、脇腹の痛みを意識の外へと追い出そうと努力する。 目に見えないカルウに向かって祈る。 目を開ける。心なしか痛みが減ったような気がした。 「ルシャらしくないな」 シュハラは部屋の様子を改めて眺めながら笑う。 部屋は滅茶苦茶だった。整理されたものが何一つ無い。あちこちに血が飛び散り、埃が舞っている。そして、男が身動きせずにカーペットを血で染めている。カーペットはゆっくりと男の血を吸っていた。 ルシャはシュハラの手を握ったままひたすらに走った。二階から一階へ。一階から外へ。軍が大使館を包囲していたが、軍は他のところに気を取られているようで、ルシャ達と建物を挟んで反対側で銃声が響いていた。 沢山の兵士と、装甲車。 ルシャの意識は朦朧としていたが、足を前に繰り続けることと、握った手を離さないことだけはしっかりと意識していた。 絶え間なく続く怒号と弾の跳躍音が、遠い場所の出来事に思えた。 しばらく走り続け、軍の監視の目をかいくぐり、完全に安全な場所に着いたとき痛みは臨界点を突破し、身体中の火照りを感じながらルシャは意識を失った。 どのくらい経ったのだろう。 片浜は部屋に備わっているイルカのプリントされた丸い時計を見た。 佐那田が頭痛を訴えて部屋を出てから、すでに二〇分が経とうとしていた。佐那田がこんなに遅くなるのは初めての事だった。平均して約七分、どんなに遅くても一〇分以内にはいつも明るい顔をして戻ってくる。ドアを眺めるが、開く気配はまったくない。 どうしたのだろう。 佐那田がいじっていたつくりかけのパネルを見る。 厚紙と有機分子ディスプレーとの接着部に、つけかけのテープが残っている。テープは反り返り、接着力はありそうにない。コンピュータの画面には、述語をまだ書いていない書きかけの文章がそのままになってカーソルが点滅している。 別にどこかへ行くとも言われなかった。それに、佐那田さんが作業を放棄してどこかへ行ってしまうなんて、考えられないことだ。 佐那田さんに、何かあったんじゃ……。 片浜はそう思ったが、すぐに心の中で否定した。 何かあった、って、いったい、何があると俺は思っているんだ?考えられる戻ってきていない理由は、いくらでもある。もしかして、急に用事を思い浮かべて帰ってしまったのかもしれないし。いや、それはありえないか。じゃあ、廊下で先生とばったり会って、学校祭についての長話をしているのかもしれないし。別に、佐那田さんが倒れたり、病院に運ばれたり、そういうばかげた理由を考え出す必要のない状況じゃないか。 金属の、古めかしいドア。ところどころへこんでいるドア。 片浜はドアを凝視する。 ドアを開けて佐那田を探し出すことも考えたが、行き違いになる可能性もあり片浜は実行に移せなかった。 たかが二〇分じゃないか。なぜそんな短い時間で俺は動揺しているんだ? 佐那田が帰ってこないという状況では、片浜は何もする気が起こらなかった。部屋を片づけたり、パネルを完成させたりするという作業は残っているのだが、どうしてもドアを眺めてしまう。手が思うように動かない。 頭が痛いと言ったときの佐那田を思い出す。いつもと変わらない位の苦痛にゆがんだ顔だった。特別ひどく苦しんでいたとは思えない。いつもごめん、というような感じで、苦しみながらも軽く笑っていた。 ドアが、開く。 「ちわ、欺瞞を暴き真実を晒す夾林高校新聞部です。文化祭での各団体の出し物についていろいろと調べています。天文心理部の取材、よろしいですか?」 突然にドアを開いて部室に入ってきたのは、片浜が見覚えのある三人だった。クラスメイトということと、みつあみと赤ちびと茶ロンゲという最初につけたあだ名は覚えていたが、本当の名前は思い出せない。片浜は人の顔と名前を一致させるのがすごく苦手だった。転校して一週間が経つというのに、五人ほどの名前しか覚えていなかった。 片浜は立ち上がって、どんどんと入ろうとしてくる三人組の前に立ちふさがった。先頭に立っていたみつあみがわざとらしく口に手を当てる。 「あら、片浜君じゃない」 「入るときはノックをしてください」 片浜は佐那田が戻ってこないいらだちをぶつけるかのように不機嫌に言った。するとみつあみは小さく舌を出して両手を片浜の目の前で合わせる。 「ごめんなさい。いろいろなところを回らなくちゃいけなかったから急いでいたの。部長出してくれる?君が部長だったら楽なんだけど、転校一週間でそんなことできるわけがないし」 片浜は首を振って顔で部屋の様子を指し示した。その首の動きに合わせて三人は視線を移動させる。 「汚い部屋だな。文化祭の準備をやっているのだから当然か」 茶ロンゲが言う。 「見てのとおり、誰もいません。お引取り願えますか?」 「そう、誰もいないんだ。じゃあ、仕方がないわね」 みつあみはどこからか赤い手帳を取り出し、右手でペンを回し始めた。 「じゃあ、片浜君でいいや。今回の天文心理部の活動について教えてくれる?」 「ちなみに、拒否権はないぞ。我々は学校公認の部なんだからな」 「そう。俺たちは学校から認められた由緒正しい部だ。真実を追い求めるためにはいかなる犠牲も厭わない。おまえは俺たちに協力することは義務づけられている」 片浜は三人の肩越しにドアの向こうを眺めた。佐那田がいる気配はない。いつも部室から出たあとにどこへ行くのかはわからなかったが、いるならば近くにいるような気がなんとなくした。 この新聞部の三人のノリは片浜はあまり好きではなかったが、質問の内容は天文心理部に対するものということはわかりきっていたし、文化祭での活動内容はよく知っていたので答えることができる。こういうことにも協力した方が、結局は佐那田に喜ばれるのではないかと片浜は考えた。 それに。 この一週間、天文心理部で文化祭の準備の活動を行っていたのは佐那田と片浜だけだった。名簿には確かに十名ほど部員がいるのだが、片浜は佐那田以外の人物にあったことが一度もない。名簿には名前しか書かれておらず、学年も連絡先もわからない。佐那田が片浜に語るに、「文化祭には来るよ」という事だったが、準備をせずに文化祭に参加するというのはどういう考えなんだろうと片浜は思っていた。まだ文化祭まで二週間もあるからかもしれないとも片浜は思う。文化祭三日前くらいになればちゃんと来るのかもしれない。 佐那田以外に答えられる人物が自分しかいないのだから、答える義務はあるのだろうと片浜は思う。 「わかりました。あと、質問に答えることによって何らかの報酬は貰えるのですか?」 「報酬?はあ?何言ってるんだ?答えるのはこの高校で生きる人間ならば当然の責務だろうが」 茶ロン毛が両手を肩の位置にまで上げるオーバーリアクションで言った。 「責務とか義務とか、俺は罰則のない規則に縛られるつもりはないんで。俺はただあなた方が持っている情報を少し知りたいだけです。嫌なら、帰ってください。今忙しいんです。これからも忙しくなる一方だと思うので、取材の機会はもう無いと思いますよ」 片浜はみつあみの方を見て言った。一番ものがわかりそうな感じがしたからだ。みつあみは手帳をぱらぱらとめくりながら暫く思案していた。横で茶ロン毛がみつあみに耳打ちをしていた。小さい声だからか、片浜の位置からは何も聞こえなかった。 「わかったわ。他の部の内部情報とか、私たちの信用に関わる絶対に漏らしてはいけない事柄以外なら、情報を提供しましょう。その代わり、そちらも答えられる限り答えてもらうよ。了解?」 片浜は身体を横にひねり、三人が部屋に入れるように立ち位置を変えた。 「わかりました。とりあえず中に入ってください。何も出ませんが。先にこちらの質問に答えてもらっていいですか?」 三人はぞろぞろと中へ入っていく。片浜は移動のじゃまになるような散乱物を脇にどけた。三人がノートパソコンとプリントが散らばったテーブル周りに腰を下ろすのを確認したあと、片浜も座った。みつあみは赤い手帳をテーブルの上に広げる。 新聞部ならば、自分が知りたいことも知っているかもしれない。このおかしな学校についてなんらかの情報を持っているかもしれない。わけのわからない身の回りのことも少しは解明するかもしれない。 「学校中に盗聴器が仕掛けられているって、本当ですか?」 部屋のあちこちを見回していた赤ちびは動きを止め片浜の方に振り返り、周囲に散らばったプリント類を触っていた茶ロン毛は目だけを片浜の方へ向けた。みつあみは口を半開きにしている。 三人の顔が瞬間的に強ばったのが片浜にもわかった。 量子計算機搭載型高度戦略情報兵器『エリ』。基本的に最前線で活動することが前提である。人ではないことから、思い切った戦略を採ることが出来、人と同じ武器を使えることで既存の兵器を再活用できるということに利点がある。一兵士でありながら、大局の情報を得ることができるのでその時に最善と思われる行動をすることができる。 だが、実験の段階で、エリは致命的な欠点をさらけ出した。 量子計算機を利用した初の二足歩行型のロボットであるが、設計の基本的なところのアルゴリズムに何らかのバグがあり、自律機能を有するようになってしまった。自律機能とはすなわち自我である。背柳にとって、自我の発生は予想外であったものの歓迎すべき事柄だった。未だかつて、人類は自分以外の知性体を生み出すことに成功していなかった。何をもって知性体とするかという定義が非常に難しいが、ある程度発達した知性体が、それを見て知性体と判断できるものを知性体とするというのが、もっとも受け入れられている定義である。自我の場合も同様に、自我を持つものが、それを見て自我を持っていると判断できるものを自我を持つものとしていた。 この定義に当てはめると、エリは自我を持つものと考えられた。少なくとも、背柳にはそう考えられた。 だが、たとえ自我を持っていたとしてもエリは兵器だった。兵器として存在しているという前提条件の上に成り立つ自我だった。そのような自我を過去に知っていたのは誰もいない。 そして、自我を持つことによりシステムが不安定になり、暴走した。 それでも、初の人工生命としてエリを扱うか、それとも当初の計画通り兵器として扱うか。 背柳よりも上層部で、非常に大きな問題として認識されていた。軍としても、人工生命を創り出したという事実を世間に公表すれば、大規模な戦争が起こりえなくなり、軍の存在の動機付けが難しくなった時代において、軍の研究が科学技術の発展に未だに大きく寄与しているということをアピールできる。だが、かなりの予算を組んで進行しているプロジェクトの目的を変更するのは、近々行われるであろう第二次テロリスト撲滅戦争に対して外交上での日本の立場を非常に危うくすることになる。日本の軍隊が合憲化してからの初めての戦争になるのだから、それなりに効果のある兵器を投入しなければならない。 人的被害を最小限にして、攻撃に最大限の効果を与えるには、エリのような人型兵器の投入が不可欠だった。エリの素体の研究はすでに完成されており、あとはシステムの開発のみだったため、システムのインストールを待つ実戦用の素体はある工場で二〇体を生産中だった。 自我を持たせたまま戦争に参加させるという案もあったのだが、それはエリの二度にわたる暴走によって廃案となった。 戦争は確実に始まり、時間は貴重だった。 上層部は、外交を優先することに決定した。エリのような兵器が駒として使えない場合の外交上の悪影響は無視することはできなかった。中国が経済の中心であっても、アメリカは未だに世界の政治の中心だった。上層部は再インストールにより自我を消去するという命令を研究開発部門に通達した。 だが、結局のところ、アルゴリズムレベルでのバグだったということが判明し、再インストールしてもやはり自我は発生した。 背柳が目を覚ました時点で、再インストールは終了し自我が発生したことが判明していた。上層部にもそのことを報告してあった。自我を除去できないということは、すなわち、暴走が起きる可能性が残されたということである。暴走が起きる可能性を除去できなければ実戦で使うことができない。味方を危険にさせる兵器は兵器とての存在意義がない。 暴走をどうにかしなければ、どうしようもなかった。 プロジェクトに関わる研究員の沢山が囲む円卓で、ある研究員が提案をした。 「間接的に感覚情報を入力させればどうでしょう?」 その研究員は佐々木という名で、背柳は全く面識がなかった。準研究員として配属されたばかりの若者だという。背も小さく、主に研究員の補佐を行っていたらしく、いつもついている研究員につれられて会議に参加していた。佐々木の考えは新鮮で、考察する限り有効で、手間もコストもあまりかからなかった。 新たにエリに情報を統合する従来式の人工知能を搭載する。その人工知能はエリに入力されるすべての感覚を司る。エリへの感覚入力はこの人工知能を経由する。問題がなければ何もしない。ただデータをバイパスする。そして、エリの脳が身体に対して出す指令もこの人工知能を一度通過してから各身体器官に送られる。これも問題がなければただデータを通す。 暴走時、人工知能は活動を本格的に開始する。入力される感覚情報をそのまま脳へと伝えずに、加工して伝える。脳の暴走の原因を人工知能なりに考え、有害だと思われる情報を遮断、もしくは変更する。味方に対して危害を加えようとしていた場合、脳が身体へと送る信号を遮断する。これの利点は、量子計算機の挙動を変更しなくても、間接的にエリ自体の挙動を制御できることにある。さらに、エリに学習させようとしたとき、人間用に開発されもはや社会の基幹技術になっているヴァーチャルリアリティ技術を利用できる。ヴァーチャルリアリティの創り出す信号を人工知能を通して脳に送れば、エリには現実と虚構の区別がつかない。エリの素体自体には何の危害を与えずに、学習させられる。 娯楽用の再現精度の荒い空間から、軍事用に開発され兵士の教育にも使われている高精細空間まで、使うことのできるヴァーチャルリアリティは無数にあった。 暴走をいかに無くすかではなく、暴走をどう止めるかではなく、暴走が起こった状態でもまともに味方には何の危害も与えないようにするということを着目したこの考えは、背柳には思いつけなかった。 従来のシステムに追加するだけなので、自我が消失する可能性もない。 すでに佐々木は自分自身で人工知能用のプログラムを用意していた。違う用途に使うために趣味で作っていたプログラムだという。汎用コンピュータで使える言語で書かれているために、ちょっとした改変のみですぐにエリに対して使用できるらしい。 細かな技術的な質問をされても即座に返答し、極めて論理的に話すこの若者を、背柳はうらやましく感じた。天才というのをはじめて見たような気持ちだった。 佐々木の提案に対して、その場にいる全員がこれを採用しない理由を思いつくことができず、提案は実行に移されることになった。それとともに、佐々木は臨時アドバイザーという地位に就くことになった。 桂木、背柳、佐々木の三人がプロジェクトの主要なメンバーとなった。それぞれ、主任、副主任、臨時アドバイザーという役職である。すでに背柳はメンバーのトップではなくなっていた。背柳が人工知能に固執したために起きた起動実験の失敗のために背柳は副主任に降格され、ある程度ハードウエア、ソフトウエア的にエリが完成してきたことにより、技術的な面よりも社会的な面が重要になりつつあるため桂木が主任に昇格した。基本的に二人のやらなければならないことは以前とは変わらないが、桂木が背柳に対してそれなりの権限を持つことにより、背柳の固執がプロジェクトに与えるような状況がなくなった。背柳は独断で行動を起こすことができなくなり、いちいち桂木に許諾を申し入れなくてはならなくなった。 円卓の一番奥に座っている桂木が佐々木の案を採用することを告げる。隣に座る背柳はさらに隣に座ることになった佐々木から資料を受け取り、整理する。 桂木が会議の終了を告げると、研究員たちは席を立ちドアを通りぬけてどこかへと消えた。 最後に、三人が残る。佐々木が立ち上がってテーブルに置かれていた背柳の手を握る。 「背柳さん、僕、感激です。自分の案がこのような巨大プロジェクトを動かすことになるとは。僕は、入る前から背柳さんのことを憧れていたんです。こうやって背柳さんと同じ場所に立つことができるなんて、もう、ほんとに、なんて言ったらいいのか」 佐々木は背柳の手を握ったまま喋っている。手は少し震えているようだった。 背柳は改めて佐々木の顔を見た。白衣を着て横に細長いめがねをかけている。髪の毛はやや茶色に染められていた。研究員というよりは学生という言葉のほうが似合いそうな青年だった。 一通り感激と感謝の言葉を背柳に述べた後、佐々木は桂木の手を握った。 「桂木さん、あなたの評判をよく聞いていました。敏腕で、何事も瞬時に成し遂げることができて、そして、誰かを指揮して何かを成し遂げさせる才能がすばらしいそうで。こんなすばらしいお二人と一緒に仕事ができるなんて、僕は本当にすごく感激しています。感謝しています。天才肌の人間が二人も揃っているからこそ、量子計算機搭載型の二足歩行兵器が夢物語ではなく実際に動くものとして存在していると僕は思っています。できるかぎりのことをがんばりますので、これからよろしくお願いします」 佐々木は二人に向かって深々と頭を下げた。 「ああ。こちらこそ、よろしく」 「よろしくね」 桂木と背柳は二人同時に佐々木の肩を叩いた。 「で、真の本題に入るのだが。これからのエリの運用について。実験について。私は佐々木君の制御装置がどの程度効果を発揮できるのか見たい。どのくらいでエリに装備できそうだ?」 桂木は胸ポケットからタバコを取り出す。ライターで火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込んだ。会議中は禁煙だったため、目の前には灰皿がなかった。 「エリのOSで動かせるように改変する時間を一日とすると、順調にいけば三日で配備することができます」 「背柳さん、エリの感覚入出力系にはエラーは今まで発生していないのですよね?」 桂木が聞く。 「ええ。オーバードライブさえ起きなければ、感覚入出力がエラーを返すことはないと思うわ」 感覚入出力自体は以前とまったく同じものを用いることになる。感覚入出力とは、人間で言うところの五感と各筋肉のことだ。エリの脳が暴走したとしても、佐々木考案の装置を中継すれば感覚入出力に異常が起きることはない。だが、感覚入出力自体が何らかの原因でエラーになった場合、中継装置があるとその場で修復するのが困難になる。なぜならば、感覚入出力の自己診断修復機能を超えるエラーが発生した場合、狂った感覚入出力を直すためにはほかの正常な感覚入力からの正常なデータを参照し、狂った個所が本当ならばどういう反応しなければならないのかということを決定しなければならないからだ。中継される人工知能の目的は情報の入出力の管理であり、情報を判断統合する機能は搭載されていない。もし情報を判断統合する機能を搭載させなければならないのなら、莫大な情報量を判断するために半導体ベースの従来式の人工知能ではなく、量子計算機を使用しなければならない。暴走の危険のほとんどない従来型を使わなければ、本来の目的が達成できない。そのため、感覚入力系が致命的なエラーを起こす確率を極力減らさなければならない。 桂木が椅子を回転させて背柳と佐々木のほうに向き直る。 「信頼できる筋からの情報によると、アメリカは三ヶ月後にはテロリスト国家に戦争を仕掛けるそうです。日本としては、憲法改正後の初の軍隊派遣となります。上層部はエリを前線で投入したいと考えています。しかし、いくらヴァーチャルリアリティでエリが経験をつめるとしても、リアルでの長期稼動試験はやはり必要です。そこで、当初と少し目的が変わりましたが、私が用意した舞台を用いることにします。佐々木君と背柳さんは、エリに普通の高校生の行動パターンを学習させてください。一週間後、エリは佐那田恵理として夾林学園高等部に入学させます。期間は約二ヶ月。その学園の文化祭が終わるまで。長期稼動試験が無事に成功したあと、エリに兵器として必要なすべてのデータを入れることにしてください。わかりました?」 「ちょっと待ってください。なぜ、舞台が学校なのですか?学校ではエリの全行動をモニターすることができません。それでは試験にならないのではないのですか?もっと設備の整った施設で、我々の命令に忠実な人間が集まる場所で試験するほうがいいのではないですか?」 佐々木が桂木に向かって異議を申し立てた。 「いや、それでは意味がありません。通常と全く異なる環境に置かれたとき、エリがどのように反応するかというのをテストするという意味合いも含まれていますから。あと、この夾林学園は普通の学校とは違います。生徒一人一人に電子的マーカーをつけ、校舎には二メートル間隔で観測機器をつけています。その観測機器でエリのパラメーターを外部から類推することは容易なはずです」 「それって、個人情報保護法に違反してない?」 背柳が横から口を挟む。桂木は背柳の方に頭を回した。 「いまさら何を言っているんですか、背柳さん。個人情報保護法なんて、とっくの昔に形骸化してます。情報を盗んだとしても、それを独自で利用しているのなら、情報を盗まれた本人が気付くわけがないでしょう。知らぬが仏ですよ。個人情報が保護されているなんて、国民の共同幻想に過ぎません。情報が様々なところでやりとりされることによって現在の社会は成り立っています」 桂木は佐々木を見る。 「というわけです。何も問題はないのですよ、佐々木君。何か、質問はありますか?」 桂木は佐々木と背柳を見回す。二人は沈黙していた。桂木が煙を吐く。 「じゃ、解散ですね。私はこれから対外的な事に関することで非常に忙しくなると思いますから、連絡が取れなくなるかもしれません。何か緊急時であれば緊急時であるということを併記して通信してくれれば応じますので」 桂木は胸ポケットから携帯用の灰皿を取り出し、それに灰を落とし込んだ。そのまま立ち上がる。 「それじゃ、お先に」 桂木は振り返らずに手だけを振って部屋から出ていった。 佐々木と背柳だけが部屋に残される。一瞬目が合ってから、背柳は席を立った。 「それじゃ。がんばりましょう。私、期待してるわ」 桂木と同じように手だけを佐々木に振り部屋の出口へと向かった。 「あの」 振り返る。佐々木が立ち上がって小走りに走ってきた。 「背柳さん、一つ聞いてもいいですか?」 「なに?」 佐々木はうつむいていた。ゆっくりと顔を上げ、背柳と目を合わせた。 「僕たちがやっていることって、間違っていないですよね。桂木さんの話を聞いていると、軍は目的の為には手段を選んでいないように感じるんです。軍は国民のために存在しているはずなのに、国民が軍に利用されているような気がしてきます」 佐々木は何かを追い払うように頭を横に振る。 「気のせいですよね。僕がまだ桂木さんのことを良く知らないだけですよね」 世の中は間違っている間違っていないの単純な二元論で構成されているわけではない。背柳はそのことを仕事を始めてから良く感じるようになった。学生時代にもっていた様々なたぐいの理想論を捨てて久しかった。 佐々木君と私は、いくつ歳が違うのだろう。 少なくとも三つは離れているような気がした。社会人になりはじめてからの最初の三年間の経験量は大きい。汚い現実をある程度容認するようになってしまうのが三年間だとも思う。自分もそれなりに理想主義者だが、佐々木君は若さ故にかそれ以上に理想主義者なのだろう。 「気のせいよ」 背柳は佐々木に微笑み、きびすを返して部屋をあとにした。 その微笑みは自分が現実を教える立場になってしまったことに対する苦笑だった。 だが、誰もいない廊下に、ハイヒールの靴音を響かせて背柳は思う。 間違っているか正しいか、世の中は〇と一では判断できない。どの事象も〇と一をある程度含んでいる。問題は、どの程度悪いのか、どの程度正しいのかということを判断すること。そう考えたときに、自分たちがやっていることは五〇パーセント以上の確率で正しいのか否か。 エリから見れば、感覚入出力を制御する人工知能は、拘束具ともとれる。私たちは、エリに拘束具をつける権利があるのだろうか。自我を持つ存在の自由意志を拘束することは、その自我を持つ存在の所有者だとしてもどのくらい正しいのだろうか。 答えなど出るはずはない。 わからないものはわからない。 背柳はそう結論した。 そしてさらに背柳は考える。 わからなければ実験すればいい。この目で確かめればいい。 |