確率崩壊

4,覚醒




 背柳は、エリが格納されている通称『棺桶』のすぐそばに立っていた。『棺桶』には、起動実験用外部電力型モジュールという名前があるのだが、最初の起動実験の時のエリの手の動作が棺桶から出てくるように見えたため、今ではそう呼ばれている。『棺桶』は実際の棺桶とは似ても似つかなく、制御、電源、情報伝達のためのケーブル類が中心の直方体から伸び、周りに電子ドラムのような配列で各種パラメータを参照するためのモニタリング装置が設置されてある。最終的にはすべて遠隔制御になり、消費電力も減り、行動素体は人間と同じ程度にすっきりとしたシステムになるのだが、それはエリの学習が終わるころになされることだった。
 窓で隔てられた別室にいる研究員たちの方を見る。彼らには、いつもは背柳自身がいるコンソールを任せてあった。エリが自律的に動いてしまう現在、コンソールでやることはあまりなく、情報の解釈と、緊急事態時のシャットダウンくらいしかない。背柳は、エリが自律的に動く理由を考えることをやめ、自律的に動いていることのメリットを生かして、エリのことを人間に近づけるという作業を行うことにした。
 最初の起動実験から一八日ほど過ぎたが、二度目の起動実験はまだ行っていなかった。自律行動の謎を解明してから起動させようと思っていたからだ。最初の起動の時の自律的行動がたんなる偶然である可能性も否定はできなかった。
 だが、エリを通常の学校に入学させて様子を見るという案が浮上したため、背柳は『棺桶』の傍らに立っている。
「起動シークエンスを開始して。初回起動時と同じパラメータになるよう極力努力することを忘れないように」
 手首につけているレシーバーからコンソールへと合図を送る。
『了解しました。何が起こるかわからないので、気をつけてください、背柳さん』
「わかってるわよ」
 真っ白い巨大な部屋の中には、背柳しかいなかった。
『では、第二回起動実験、開始します。電力供給始め』
 無指向性のスピーカーから研究員の声が聞こえ、部屋全体に響いた。
 部屋全体がうなる。部屋の外部に取り付けられた発電機が動いているのだろう。控えめに光りエリの各種パラメータを表示していたモニター類に主電力が供給され、モニターの輝度が上がる。ジェネレーターが稼動し、『棺桶』全体が鈍い振動に包まれる。
『環境制御因子、ミニマムコンストラクタ、その他各種因子はすべて正常。エリのオペレーションシステムを起動します』
 モニターのひとつに起動画面が現れる。不必要に半透明の処理を行う起動ロゴが現れ、回転している。量子力学の数学的概念を視覚化した芸術家の作品をモチーフにしているらしいが、背柳にはロゴの芸術のセンスが理解できなかった。
『一部メモリ開放に失敗、ミニマムコンストラクタに影響はありません。ワーキングメモリ領域は正常です。オペレーションシステムと外部環境を接続します。背柳さん、少し離れていてください。『棺桶』が開きます』
「わかってるわよ」
 留め具が外れるような音がした。背柳の予想外に大きく、思わず耳をふさいだ。駆動音のような音が聞こえ始める。ギヤが回るような、何かがこすれ合うような音もする。
 ゆっくりと、貝が開くように『棺桶』は開いていく。
 エリを冷やしていたドライアイスの煙が『棺桶』から溢れ出してきていた。
『『棺桶』の機械的動作にはまったく異常はありません。最終シークエンスに入ってもよろしいですか、背柳さん?』
 ドライアイスの煙が消えていく。
 エリは、眠っているように見えた。
 茶色い髪が『棺桶』の中で自然に広がっている。薄い緑色のゆったりとしたローブを身にまとい、細長い繊細そうな手がおなかの上で組んである。
「よくもまあ、ここまで人間に似せたものね」
 別室の人間には聞こえないくらいの声で小さくつぶやく。
 どう見ても、十五,六才の少女にしか見えない。これが人の手によって作られたとは到底信じられなかった。研究開発班と、エリの容姿に関する立体造形班はほとんど別行動であるため、どのような人たちがどのような思いで作り上げたかはわからないが、多分、愛情が入っているのだろうと思う。行動素体が提供されたときに見ているし、それから何度も何度も見ているが、こうやって起動直前に顔を見るのは初めてだった。
 額を叩けば、顔をしかめて起き上がりそうな、そんな雰囲気。
『背柳さん?聞こえていますか?何か異常がありましたか?』
 呼ばれているのに気づく。
「あ、大丈夫。何も異常はないわ。続けて」
『了解しました。あと、もう少し離れたほうがいいですよ。何が起こるかわかりませんし』
「了解」
『オペレーションシステムと、外部エーピーアイとのコネクション確立。行動素体と量子演算のリンク確定。外部電力の一部を内部電力へと切り替えます。オペレーションシステム、今のところ異常なし』
 オペレーションシステム自体は、従来のデジタルCPUにより動かされている。エリの量子計算機の頭脳から送られるデータを、各関節部が解釈して実行できるようなデータに変換する部分をオペレーションシステムが担っている。量子計算機はオペレーションシステムの管轄外であって、量子計算機とオペレーションシステムとのデータリンクがつながった瞬間に、エリは『目を覚ます』ことになる。
『ミニマムコンストラクタ異常なし。量子計算機、稼動します。十秒後にオペレーションシステムとのデータリンクの確立を試みます』
 エリの指先が、少し動いた。
『量子計算機とオペレーションシステムとのデータリンク確立』
「自律的行動は見られる?」
『大丈夫です。背柳さん。すでに私たちはエリのことを何も制御していません。自律的行動がないのならば、エリは指一本動かせないはずです』
「よかった」
 エリが、まばたきをした。
「ん、んー」
 目が覚めた人そのままに、エリは両手を上に上げて大きく背伸びをした。そしてゆっくりと上半身を起こす。
「よく寝たなー」
 両目をこすっている。腰近くまである髪はローブのラインに沿って流れ落ちるように垂れていた。
 頭をかく仕草も、目をこする仕草も、背伸びをしてあくびをする仕草も、どの仕草も人間そっくりに背柳には思えた。表情筋も見事にシミュレートされ、顔の表情に不自然さは見られない。瞳は、聡明そうな茶色。
「ん」
 目が合った。
「おはよう。エリ」
 あまりにも寝起きの人にそっくりだったため、背柳はつい朝の挨拶をしてしまっていた。
「ん、おはよう」
 エリは『棺桶』の縁に右手をかけている。ひじを軽く曲げて、伸ばす。右手を中心にしてエリは回転した。背中のコードが回転するエリの動きに合わせて伸びていく。からまりそうでからまらない背面ひねりでエリは床に着地した。足首をクッションにして、着地時の音もない。
 背柳の目の前にエリがいる。
 背柳より頭一つ分くらい小さい。だいたい、一四〇センチメートルくらいだろうか。寝ている状態ですでに背が小さいことはわかっていたが、こうして立っているのを見ると、かなり小さいことがわかる。背中から生える数十本のコードさえ無ければ、正真正銘人間の少女に見えただろう。普通の高校生というより、どちらかといえば、オーディションで選ばれたアイドルのように見える。立体造形班ではヴァーチャルアイドルを製作する技術も使われているためだろうと背柳は思った。
 だが、少女はやはり兵器でしかない。
 華奢そうな身体には、成人男性の三倍くらいのポテンシャルが秘められている。戦場でドアを蹴破り、片手で兵士の首をつかんで持ち上げられるくらいの力を発揮できるポテンシャルが。
 結局、少女は人間ではない。
 それを常に頭に入れながら接しなければならないと、背柳は思う。
「ねえ、なにじろじろ見てるの?」
 あごに指を当てて、エリは背柳の顔を見上げている。
「けど、かわいい……」
『え、背柳さん、今何か言いましたか?』
「い、いえ」
 背柳のつぶやきをマイクが拾ってしまったらしい。背柳はマイクの入力レベルを下げた。
「こんにちは。エリ」
 エリに向かって微笑みかける。
「あんた、だれ?」
 不審がっている顔をしてエリは言った。
「私は、背柳なぎさ。あなたを創った人よ」
「てことは、お母さん?」
「ん、まあ、そういうことになるかな」
 エリは背柳のことをじろじろと見ながら、背柳の周りをくるくると回る。背中のコードは絡まらずにエリの動きに合わせて動いている。
「んー」
 エリは再び背柳に正対して立ち止まる。
「どうしたの?」
「あなた、だれ?」
 最初のときよりも口調が鋭い。目はまっすぐに背柳に向けられている。
「だから、私はあなたを創った人。お母さんみたいなものよ」
「うそ」
 突然、背柳の腹に鈍痛が走る。その後背中にも。
 気がつけば、背柳は仰向けに倒れていた。背中をさすりながら、ゆっくりと立ちあがる。エリは掌を背柳のほうへ向けて、掌底のような形を作っている。すぐに、エリに腹を強打されて二メートルほど吹っ飛んだことに気づく。手に持っていたメモ用紙と筆記用具が床に散乱していた。
「――なにを、するの?」
「あなた、うそをついてる」
 エリが背柳のほうへ歩いてくる。身体の動きに合わせて髪が揺れている。茶色い瞳はまっすぐに背柳を射抜いている。
「うそなんか……、ついて、ないわよ……」
 呼吸が乱れていた。背中を強打した時の痛みのせいで満足に話すことができない。
『背柳さん、大丈夫ですか!エリのシャットダウンを実行しますか?』
「おねがい……」
 痛みのせいで思うように動かない手を動かして、なんとかマイクの入力レベルを上げた。
 エリは近づいてきている。
「あなた、私のなに?なんで、私はこんな誰もいない部屋に閉じ込められているの?もしあなたが私のお母さんなら、私に対してこんな仕打ちはしないはず」
 さらに近づいてくる。背柳はゆっくりと後ろへ下がる。
「ここはどこ?なんで私はここにいるの?弟はどこへ行ったの?今日は日曜日だから、弟に朝ご飯をつくってあげないといけないのに」
(早く、早くシャットダウンして。エリの言動がおかしいの)
『しかし、システムに損傷を与えずにシャットダウンするには時間がかかります。もう少し待ってください』
(エリは暴走している。身の危険があるの)
「何をぼそぼそと話しているの?誰に向かって話しているの?私を誘拐したお仲間?」
「誘拐?何を言っているの、エリ」
 背柳のいる方向とは反対側のドアが開いた。制服を着た数人のガードマンが走ってくる。ガードマンたちはエリのことを羽交い締めにした。エリはただ背柳を見て抵抗せずに立っている。
『ガードマンがエリの身動きを封じている間に、背柳さんは、逃げてください。もう少しでシャットダウンできます』
(いいから。さっさと強制シャットダウンしなさい。ガードマン数人くらいじゃ、エリは止められないわ)
「背柳って人。この人たちもあなたのお仲間?」
 身体を羽交い締めにされたまま、エリは平然として聞く。
『シャットダウン!』
 部屋全体に、声が響き渡った。エリがゆっくりと目を閉じる。
 再び目を開けて、首を左右上下に動かした。つま先で床を叩いている。
「今、何かした?少し身体が重くなったんだけど」
 エリは再び背柳の方を見ている。茶色い瞳が冷たく光り、背柳に対して好意的な感情がまったく見られない。獲物を狙う肉食動物のように背柳をたんなる対象物として見ているような目だった。
『シャットダウン命令、拒否されました。強制シャットダウンも受け付けません!』
「ああ、もう。うるさいな。私はそこの背柳って人に用があるんだけど」
 そう言いながら、エリは羽交い締めされた状態から、両脇にいるガードマンたちの服をつかみ、投げ飛ばした。ガードマンたちはエリの両サイドに吹っ飛んだ。壁にぶつかる者、床にぶつかる者、どの人物も衝突の衝撃で立ちあがれないようだ。
 背柳は後ろへと下がりつづける。
 背中に感触を感じて振り返る。
 すでに壁だった。真っ白い壁が、背柳の背中に広がっていた。
 エリが再び近づいてくる。
「どういうことか、説明してもらうよ。背柳って人」
 強制シャットダウンの効果がないのならば、電力供給を断たなければならない。最初の起動実験のときに電源を落とした時、最終的に一週間近くシステムの復旧作業を続けることになったために、システムとエリの動力系統を分離していた。エリの動力は『棺桶』から供給されていて、保安上の理由と軍の規定から『棺桶』の電源は『棺桶』本体についている。兵器として作られたエリは、肉弾戦においても最高のパフォーマンスが得られるように設計されているため、うかつに近づくことができない。
 背柳がそういうようなことを考えている間にも、エリは近づいてくる。
 策を弄する暇はありそうになかった。
「エリ、とまりなさい」
「なんで?なんで、私があなたの言うことを聞かないといけないの?あなたたちは私をこんなところに閉じ込めて、何がしたいの?」
 エリの外部記憶装置にはまだ何も記録されていないはず。なのに、なぜ、こんなにもしゃべることができるのか。思考というものは、本来、ある程度の知識がなければ行うことができない。エリの自然言語機能は思考を行えるほど充実させていない。これから、これから、自然言語辞書にデータを入力しようとしていたのに、なぜ、あんなにも言葉を知っているのか。
背柳の心に疑問がつぎつぎと浮かんでいく。どの疑問も解けそうになかった。どういったものが答えの類なのか、そういうこともまったくわからない。
何かに引っ張られたかのようにエリの歩みが止まる。
『棺桶』から伸びたコードが伸びきっているのがエリの背後のほうに見える。エリは一度振り返ったが、すぐに背柳のほうを見る。そして再び歩き始める。コードが徐々に持ち上がっていく。『棺桶』とエリの背中をつなぐコードの束が一直線になる。さらにエリは歩こうとする。
「やめなさい。コードが切れるわ」
「コード?あ、私の背中にくっついているやつね。私を縛り付ける縄でしょ」
 エリが一歩進むごとに張り詰めたコードが揺れる。完全に固定されているとはいいがたい『棺桶』がエリのほうへ少し傾いている。
「やめなさい。切れたら動けなくなるのよ」
「じゃあ、そのうれしそうな顔は何?切れてほしそうな顔。私が動けなくなったほうがいいんだ。そんなことを言う人が、私のお母さんのわけないじゃない」
 自分がうれしそうな顔をしたという覚えはない。背柳は手を頬に当てた。やはり、自分がうれしそうな顔をしているようには思えない。
「うれしそうな顔なんてしてないわ」
「じゃあ、なんで確かめているの?やはり、思ってたんだ」
「うっ、それは」
「ま、いいよ。こんな縄、引きちぎるから。私に縄をつけたことを後悔させてやるから」
 そう言って、エリは後ろへと十歩ほど下がった。いったん膝を落とし、重心を前へかける。しゃがんだ状態でも、目は背柳のほうを向いている。
「よーい、スタート!」
 エリは自分の掛け声とともに走り出した。
 コードが、伸びていく。エリが背柳のほうへ走るにつれてだんだんと張り詰めていく。エリの走る速度は落ちない。ただ、背柳のほうを見つめながら走ってくる。緑色のローブをはためかせながら。
 破裂音。
 最初の破裂音がした瞬間に次の破裂音が起こり、さらにたてつづけて破裂音が起こる。瞬間的に何十ものコードが切断された。電気的な火花を散らしながら、ちぎれたコードは反動でそれぞれ反対方向へ飛んでいく。まっすぐに走ってきたエリの瞳から光りが失われ、足も手も統一のないただの人形のように背柳のほうへと飛んでくる。
 もしよけたとすれば、エリは壁に激突してしまう。活動時には働くサスペンション機能なしで壁に激突したときの状態は、背柳には容易に想像できた。
 背柳は両手を広げた。
 深呼吸をして、飛んでくる物体の衝撃に備える。壁から二歩前に立つ。両手を前方へと伸ばす。
 衝撃。
 手を曲げる動きと、後ろへ下がる足の動きで速度を殺しながら壁へとぶつかった。背中に激痛が走る。床にぶつけた時とまったく同じ部位があたったらしい。声にも出せない痛みで、エリを抱えるようにしたまま前へと倒れこむ。床にエリの頭をぶつけないように自分の体をひねる。仰向けの上にエリが乗った。再び背中に激痛が走る。
 痛みで、背柳の意識は遠のいていった。

 屋上のドアを開ける。
 心地よい程度に湿り気を帯びた風が外から中へと吹き込んでくる。
「雨上がりか」
 佐那田がくるくると周りながら手すりへと向かう。
 屋上はほんのりと湿っていた。真上の空には雲はなく、遠く地平線の付近に雨雲らしき黒い雲が見える。風が少し冷たい。
「雨上がりって、気持ちいいと思わない?雨が汚れを全部洗い流して、空と空気が浄化されているから。足下もひんやりしているし」
「そう、かもしれない」
 空はどんよりとしていた。磨りガラス越しに透過させたような太陽光が屋上には降り注いでいる。いい天気とはお世辞にも言えそうにない。ゆっくりとした足取りで手すりの方へと向かった。
 見ると、佐那田は屋上の手すりに背中を預けて片浜の方を見ている。
「背中、濡れないのか?」
「多少濡れたって、すぐに乾くよ。ほら、こっちに来てよ」
 佐那田は背が小さい。佐那田の脇の下付近の高さに手すりがある。手すりを背にして両手を広げるにはちょうどよい高さのようだ。茶色い髪を手すりの外になびかせて顔を少し上げている。片浜も同じように手すりにもたれかかったが、腰より少し高い位置にある手すりは、もたれかかると身体が後ろへ回転するような気がしてすぐに手すりから離れた。
「背、高いんだね」
「いや、別に高すぎるわけじゃない。普通だよ」
手すりを両手でつかみ、軽く身を前へとのりだす。前にのりだす分には恐怖を感じなかった。
「ねえ」
 佐那田が聞く。
「何?」
 片浜は空を眺めながら答えた。ゆっくりと雲が西から東へと流れているのが見える。
「結局、私の天文心理部について、わかった?」
 佐那田の方を見る。佐那田は、片浜の事をじっと見つめていた。風が佐那田の前髪を横へとなびかせている。
 天文心理部について、何かわかったことがあったのだろうか。片浜は自問する。
結局、何もわかっていない。佐那田が何も教えてくれないのだから当然だ。部室に案内されたが、別にそこに何か特殊な天文心理部特有のものがあったわけでもない。天文と心理に関係することと言われても、天文している人間の心を研究すると言われても、具体的に何をしているのかさっぱり思い浮かばない。
「わからない。結局、何をするところなんだ?君は全然具体的なことを教えてくれない。部員は何人いるとか、週に何回活動しているとか、何をするのが目標なのか、そういう事を教えてくれなければ、わかるはずがないさ」
「だから、天文を心理するんだよ。週に何回って決まってない。来たいときに来れば、それが活動日になる」
「部員の人数は?」
「十人、かな。全員いるところ見たことがないから、よくわかんない」
「で、天文を心理するっていうのは?」
「そのまま。文字通り」
「さっぱりわからないけど」
 風が吹いていた。若干の湿り気を帯びた風が吹いていた。手すりは濡れていて、握っている両手は冷たくなってきていた。佐那田は、最初と同じ姿勢で手すりにもたれかかっている。
「雲って」
 突然、佐那田が言った。
「結局はただの水蒸気なんでしょ。それなのに、なんであんな風に一箇所にまとまって動いていくのかな。ただの気体なら、どこかへ散ってしまうのに。拡散していかないのがすごく不思議」
 佐那田は身体をくるりと半回転させて片浜と同じ方向を向いた。かに歩きをしながら手すりに沿って片浜のほうへと近づいてくる。
「知ってる?片浜君はどう思う?」
 右手に暖かいものが触れる。流れる雲を見ていた目を右下へと移動させる。片浜の手の上に、小さな手が乗っかっている。熱が、佐那田の手から片浜の手を通って手すりに流れ込んでいるのがなんとなくわかった。佐那田の背中は横に一直線に濡れている。
 佐那田さんは、いったい、俺に何をさせたいのだろうか。佐那田さんの行動には一貫性が見られない。今、俺は何をしているのだろうか。俺は雨上がりの屋上で何をしようとしているのか。
 片浜は、再び顔を空へと向ける。
「水蒸気というよりは、水分かな。もしかして、微小な重力がまとめているかもしれない」
「けど、水分子の間で相互作用する重力って、とんでもなく小さくない?雲を雲として維持するには小さすぎる気がする」
「そうかもしれない。けど、なんらかの凝集作用が働いているのは確かだと思う。重力は距離の二乗に反比例する力だから、お互いすごく近づいていれば大丈夫なんじゃないかな」
「けど、実際、空気中で水分子は衝突を繰り返しているわけでしょ。衝突を繰り返すことができるってことは、重力の影響が少ないっていうことじゃないのかな」
「確かに、そうかもしれない。じゃあ、なんなんだ?」
 流れる雲を見ながら、真剣に考える。雲は、なぜああいうふうな形に見えるのだろうか。水蒸気は本来目に見えないものじゃないのか。雲が目に見えるということは、純粋な水蒸気ではないということなのか。
 佐那田の手が片浜の手を離れる。手の甲からの熱の流入が止まる。ただ、熱が手すりへと逃げていく。横を見ると、佐那田が微笑んでいた。
「わかった?」
「わからないよ。本当に、なぜ雲はああやって雲のままでいられるのだろう。考えれば考えるほど不思議に思えてきた」
 佐那田は大きく首を横に振る。
「いや、天文心理部がやっていること、わかった?こうやって、不思議なことを探して誰かと語り合うの。天文するっていうのは、星を見ることもそうだけども、星以外にも、空のことや、雲のことや、雨のことや、この屋上から眺めることのできるすべてのこと。心理するっていうのは、そうやって不思議に思ったことを語り合うこと」
 佐那田が片浜の両手首をつかむ。そのまま持ち上げようとする。片浜は手すりから手を離した。佐那田の手の動きに合わせて体が回転した。佐那田と片浜は手すりに平行に向き合った。
「別に、語り合った結果原因がわからなかったとしてもかまわない。不思議なものを不思議なものとして考えるのもまた素敵なことだから。人間が物事のすべてを理解できるはずがないから」
「たしかに」
「というところかな。天文心理部っていうのは。わかった?」
 ようするに、空を見ながら何かを話すということなんだろう、と片浜は思った。ただ話し合うだけなら、別に入ってもかまわないと思った。一人暮しの放課後は、友人もまだできていないためにひまだった。話し合うだけなら、めんどうではなさそうだ。毎日何かを練習したり、作業したりするわけではないのだから。
「どんなことをするのかっていうのはわかった」
「入ってくれる?」
 佐那田が、片浜を見つめている。瞳がまっすぐに片浜の目へと向けられている。身長差のために佐那田は片浜を見上げている。茶色い瞳に自分の姿が映り込んでいるのではないかと片浜は思った。姿が映り込んでいるかどうか確認しようとはしなかった。確認するには佐那田との距離をさらに縮めなければならない。いきなり顔を近づけるほど片浜は大胆でも無遠慮でもなかった。
 片浜は手すりから体を離し、佐那田のほうを見たままゆっくりと後ろへと下がる。
 よくわからない転校。よくわからない学校。よくわからない生活。
 何か、よりどころが欲しかったのかもしれない。自分というものが所属してもいい場所が欲しかったのかもしれない。
 過去のつながりを絶たれ、未だに自分のつながりというものを何一つ持っていない自分。これといった趣味もない自分。すべての関係、すべての事柄を一から作り上げなければ何も存在しない周りの環境。そして、それを面倒くさがる自分。別に何もすることはないのに、気が疲れるという理由だけで何もしない自分。
過去のつながりと言っても、実際、過去、転校する前、自分は何かのつながりを持っていたのだろうか。転校したためにつながりがないのだろうか。実は、転校する前から自分は何ともつながっていなかったのではないか。だから、近しいと自分が思っていた友人に引越しを打ち明けても、たいして驚かれなかったのではないか。自分が見ていたつながりというのは、他人から見ればつながりではなかったのではないか。
わからない。それを確認する術を自分は持っていない。
確認したいと自分は思っているのかどうかもわからない。確認して、本当に自分とのつながりというものが何も存在しなかったら?
今まで、自分が生きてきた意味は何だったのだろう。つながりがないということは、誰とも相互作用をしていないということ。相互作用がないということは、自分は誰の記憶にも残らないということ。片浜圭という人物が確かにいたという証が何もないということ。面倒くさがっている場合ではないのかもしれない。一人暮しだ。面倒くさがり、何もせずに生きることはできる。けれど、それは、正しいことなんだろうか。
誰が正しいと決めるのだろうか。
わからない。
結局、自分の身の回りにはわからないことが多すぎる。
まだ、転校して二日しか経っていない。
転校を機に、自分を変えたほうがいいのではないか?
積極的に、他者とのつながりを求めたほうがいいのではないか?
マイナスとばかり考えていた転校を、プラスと考えるにはいい機会ではないか?
疑問符がたくさん。疑問符のついていない疑問も片浜の周りには散らばっていた。
「入るよ。俺は天文心理部に入部を希望する」
「ほんと?」
 佐那田の顔がほころぶ。目を輝かせ、両手を広げている。
「うそなんてついてない」
「やったあ」
 佐那田は片浜に飛びついてきた。倒れそうになるがなんとか持ちこたえる。倒れてしまえば、二人揃って服がびしょ濡れになってしまう。屋上の床は完全には乾いていなかった。
 よくわからなかった。
 なぜ、入部を希望するだけで抱きつかれるほど喜ばれなければならないんだ?
 さらに、片浜のわからないことが増えた。
 だが、別に理由を知りたいとはこの場合片浜は思わなかった。

「以上が概略だ」
 彼はホワイトボードを手でたたきながら言う。ホワイトボードというのは名ばかりで、実際は何度も書かれては消されるという作業が繰り返し行われたためにところどころ黒ずんだ汚らしいボードだった。
 ホワイトボードには建物の見取り図が書かれてある。
 一般の家とは違い、たくさんの部屋がある。基本的には、仕事で使われる部屋と、家族のための部屋がある。仕事で使われる部屋の方が大きいようだ。周囲を高い塀に囲まれ、その入り口付近には黒い丸が二つ描かれている。黒い丸は門番を意味している。
 ルシャはカルラウシィにある大きな建物のひとつにいた。この建物は国土が荒廃する前は国民のための多目的施設だったらしい。当時の国王だか首相だか大統領だかが国民に精神的ゆとりを持たせるために作ったそうだ。だが、実際にはその国王だか首相だか大統領はこの建物が完成する前に反対派の銃弾に倒れた。国民の基本的生活が保障されていないのにゆとりだのなんだの先進国の価値観を持ち込んだのが、反発を招いた原因のひとつだとも考えられている。この国にはこの国の価値観があるのであって、それはタクスチ教をベースに成り立っている。この国以外から来た先進国の傀儡政権がいくら作られ続けようと、この国民は常にそれらを倒し続けるだろう。国民が理解を示すことができるのは、すべてタクスチ教に矛盾しない事柄なのだから。
 ルシャは彼の目の前に座っている。目の前といっても、彼は壇のようなものに乗っているため少しはなれたところにいる。だが、目の前ということは変わらなかった。
 ルシャが一番の特等席にいるということは変わらなかった。
 シュハラはルシャの隣に座っている。ミンストゥカ出身の少年たちはみな特等席を与えられていた。他の地方から来た兵士は、もともとはただの住民であり、緊急事態であるからといって集められたに過ぎない。だが、ミンストゥカの少年たちは十年近く戦闘訓練を続け、一定の成果をあげた者たちである。そのことはカルラウシィに集う人間ならば誰でも知っていた。彼から直接の指導を受け、人生の半分以上を厳しい戒律の中で過ごした為、忠誠度は非常に高く敵前逃亡を行うことは皆無で、一人一人が一般兵士としても指揮官としても実力を発揮できる。まさしく、カルウの教えのままに育てられた少年たちだった。
 その中で、ルシャが一番の特等席に座っている。
それは、ルシャがミンストゥカの中でもっとも成績が優秀であることを示していた。彼の次にカルウに近いと言われる素質を持っていた。決闘を行えば、ルシャに傷を負わせることができる人間は誰一人存在せず、カルウについて論議を行えば誰もルシャの論理を論破できない。いつも沈着冷静に状況を的確に処理し、課題を難無くこなしてきた。
そして、今、ルシャが一番の特等席に座っている。
彼がホワイトボード上に描いた見取り図の建物に襲撃をかけるためだ。
「我々の目的はただひとつ。我々に西側の論理を押し付ける人間を殺害することだ。カルウの意思に反することをやろうとしている人間を殺害することだ。この大使館は、わが国唯一の西側の大使館だ。諸悪の根源のアメリカはわが国に大使館を置こうとしない。さすがに、我々に襲撃されるのは予想できているようだ。そのため、アメリカは自分に追従する国の一つに我々の国に大使館を作るように命じた。もしここが襲撃されても、アメリカ人の血は一滴も流されず、襲撃されたという事実を利用して、自分側の国が攻撃されたとして我々の国に攻撃を仕掛けることができるという論理だろう。この論理が働いている限り、我々はこの大使館を攻撃できないと信じているのだ。だが、いまや我々は異なる論理の中にいる」
 彼はそこで言葉を切った。しんと静まり返る部屋の中を彼は見回した。
 ルシャは彼と目が合う。
「ルシャ、いま、我々はどのような論理の中にいるかわかるか?」
 彼はルシャのほうをまっすぐに向いて語りかけた。ルシャは自分自身が彼に直接に指名された喜びに打ち震えた。
 ルシャは立ち上がる。
 部屋中の視線がルシャに集まっているのがルシャにもわかった。
 彼の方をまっすぐに見据えて答える。
「我々は、カルウの論理の中にいます。もともと、はじめから我々はカルウの論理の中にいたのですが、その論理は純粋なものではありませんでした。この国の指導者たちは西側の社会を肯定し、西側の論理をカルウの論理の中に組み込もうとしました。西側の論理は本来カルウの論理には馴染まない物。無理やりに組み込んだために弊害が生じ、現在の悲惨な社会になったのです。しかし、現在の政権は純粋なカルウの論理で国を統治しようと試みています。西側の論理は排除されようとしているのです。不純物を取り去るためにもこの国に存在する西側の論理を排除しなければならないのです。そのために、我々はこの大使館を襲撃するのです」
 ルシャが言い終わると、彼は軽く手をたたいた。
「座ってよろしい、ルシャ。ルシャが答えたとおり、我々はカルウの論理の中にいる。すでに西側の論理とは決別しているのだ。ルシャは私が言おうとしたことも述べてしまった。すばらしい、ルシャ。我々は西側の論理を排除するために大使館を襲撃するのだ。この大使館の門は常時閉まっていて、門には兵士が二人ついている。さらに細かいことを補足すると……」
 彼が再びホワイトボードにさまざまな情報を書き込みながら指を指して説明する。フェルトペンがホワイトボードに奏でる音と、彼の良く通る声のみが部屋に聞こえていた。
ルシャは彼の話をまともに聞いていなかった。
 ルシャは、彼に褒められたことに至福の喜びを感じていた。ミンストゥカ時代、生徒たちはすべて平等であり、成績の上下にかかわらず固有名詞で呼ばれることは皆無だった。彼は常に生徒全員に対して問いかけ、生徒が頭の中で意見を形成した頃を見て自分の意見を語る。だが、カルラウシィに来てから、彼は生徒たちを固有名詞で呼び始めた。
 ルシャは、彼に意見を求められた最初の人間となった。
 これで喜ばずに何で喜ぶというのだろう。
 後日、ミンストゥカの少年たちは、襲撃のさらに詳しい内容を説明される。そのことをルシャは知っていた。今、彼が話しているのは一般兵士に向けての話だった。
 ルシャの記憶がさかのぼっていく。
 初めて彼に拾われた日。日々の生活にさえ困っていた、明日まで生きられれば十分という生活の難民キャンプから連れ出してくれた日。
 もう、母の顔は覚えていない。
 だが、そのときの彼の顔は鮮明に覚えている。
 あのときから十年。
 彼にとって、ルシャは名前を呼びかけられるほどの存在になったということが、ルシャには誇りだった。

 目を覚ますと、視線の先には白い天井があった。よく見慣れた天井。いつも家に帰るのが億劫になった時に眺める天井。
 背柳は、自分の研究室のソファで目を覚ました。
 ゆっくりと背を起こす。背中の激痛はぼんやりとした鈍痛に変わっていたが、痛いことには変わりがなかった。上半身を完全に起こすのをあきらめて、再び寝転がる。
 テーブルに目をやると、コーヒーが湯気を立てているのが見えた。
 体を回転させて、足を横へと投げ出す。
 コーヒーカップは二つある。背柳は手前のカップに手を伸ばした。こぼさないように、そっと口元へと持っていく。口の中に、甘すぎず苦すぎない背柳がいつも飲む最適に調整された味が広がる。猫舌の背柳にあわされたちょうどいい温度だった。身体中にコーヒーの暖かみが染み渡り、カフェインが脳を心地よく覚醒させた。
「背柳さん、大丈夫ですか?」
 ドア付近で声が聞こえた。コーヒーカップに口をつけたままドアの方を見る。桂木が煙草をくゆらせながら部屋へと入って来るところだった。桂木は背柳の向かい側に腰を下ろした。煙と息をゆっくりと吐き出してテーブルに置いてある灰皿に煙草を押しつける。
「はあ。まさか、強制シャットダウンすら受け付けないなんて。今度起動するときは、電源操作系を二つ作るべきね」
 桂木もテーブルに置かれたコーヒーを手に取った。
「ぬるい」
 一口啜って桂木は言う。
「そうかな。私はこのくらいが適温なんだけどね。このコーヒー、桂木君がいれてくれたの?」
「いえ」
 桂木は一気にコーヒーを飲み干した。空になったカップを持って立ち上がり、音を立てているコーヒーメイカーへと向かう。そして激しく湯気を立てたカップを持って再びソファの上に座った。
「ふう。このくらい熱くないとコーヒーじゃありませんね、やはり」
 そう言いながら、桂木はコーヒーをずずっとすする。味を確かめるかのように、口の中で味を広げるように飲んでいる。目をつぶり、顔を上に上げていた。
「で、本題に戻りましょう」
 顔を上げていたのは一瞬だけで、すぐに背柳の方を見ながら桂木が言う。上着のポケットからさらに煙草を取り出し、火をつけた。
「今後、どうすればいいのか、ってことでしょ」
「ええ」
 桂木は煙を吐き出す。紫煙が桂木の周囲で渦を巻いた。背柳はその様子をぼんやりと眺めていた。カフェインが完全に背柳を覚醒状態にするにはもう少し時間がかかるようだ。
 エリの二回目の起動実験は、失敗に終わった。エリは暴走した。エリのまわりにあったモニターは数値異常を訴え、エリの身体的機能を表すパラメータは、エリが極度のオーバードライブになっていることを示していた。動力配分が適切に行われず、動力の過剰供給をされた部位が暴走を起こしたと考えられる。暴走はエリを構成する個々のパーツを狂わせ、最終的に全体が狂ったのではないか、と背柳は思っていた。
「暴走したエリを止めることを誰もできなかった。それが一番の問題点です」
 桂木はテーブルの灰皿に煙草を押しつける。ライターに火を灯し、取り出した煙草の先端を近づけながら話を続けた。
「人間が体を張って暴走したエリを止めることはできない。我々はそれを証明してしまった。エリを止めるには、根本の動力を切断するしか方法がない。一度システムが起動すると、外部からの強制終了を受け付けない。ハッキングに対しきわめて堅牢なシステムを構築したのが裏目に出たわけです。本来は負荷低減の為に人間と同じ程度しか力を発揮できないようになっているはずの身体機能が、どういうわけかオーバードライブしてしまった。オーバードライブは素体にかなりの負担をかける。各部位がよこすエラー値の非常識さをシステムが容認できませんでした。痛覚の無い人間がボクシングの試合にでるようなものです。確かに勝てるかもしれない。しかし、そんな試合を行った人間が試合後にどうなるかは簡単に予想がつきます。背柳さんが気絶している間にエリの素体を検査したところ、八四カ所の軽度の障害、十カ所の重度の障害、二カ所の部品全取り替え障害がありました」
 桂木は煙草を灰皿に投げ捨て、部屋に入るときに持っていた足下にある鞄から数枚の紙を取り出す。
「とりあえず、障害部位の報告書です。障害はすでに修復が完了しています」
 背柳はコーヒーカップを片手に持ったままその紙を受け取った。軽く目を通す。全部で九十六カ所の障害が詳しく書かれていた。エリの全体図の上に障害箇所を示す赤い点が多数描かれている。障害は背中や腕に多かった。コードを引きちぎった影響と、オーバードライブ状態で腕を振り回した影響であることは容易に想像がついた。人間でいうと筋肉がある部位に障害が多い。全取り替えを行った部位は、上腕二頭筋だった。
 桂木はさらに続ける。
「暴走するのは別に構いません。未完成な兵器なのですからこういう障害はあって当たり前のことです。しかし、暴走が止められないというと話は別です。緊急停止ができない兵器は、すでに兵器ではありません。兵器は使う立場の人間の安全を保証しなければなりません」
 背柳には、桂木の話の先にあるものを予想できなかった。回りくどく背柳の責任を責めているのはわかる。この起動実験は始めから背柳が全責任を負っている。
「だから、電源操作系を二つ作り、暴走時にすばやく切断できる機構が必要ってことよね」
 桂木は静かに首を横に振る。背柳はコーヒーカップをテーブルに置いた。
 テーブル付近から小さな音が聞こえる。背柳が目を落とすと、桂木の左手の人差し指がせわしなく上下に動いていた。人差し指は時々テーブルに当たり小さな音を立てているようだ。よく見ると、桂木の足がほんの少しだけ小刻みに動いているのがわかった。
「じゃあ、なんなの?桂木君にはもっと良い案があるの?」
 背柳は桂木の顔を真正面に見据えて言う。カフェインの効き目は全身に染み渡り、頭が速く回転しているというのが背柳の頭で認識できた。桂木は背柳の視線に気付くと、目をそらしながら紫煙を吐いた。灰皿に煙草を押しつけさらに新しい煙草を取り出して火をつける。
「桂木君、いくら何でも吸い過ぎじゃないの?」
「そうですか?これが普通ですよ」
 また大きく紫煙を吐く。
 普通ではなかった。
桂木がヘビースモーカーではないことを背柳は良く知っていた。桂木はいつも煙草を持っているが、それは本人曰く『おとこのたしなみ』というもので、間違っても『ニコチン中毒』ではないらしい。以前の桂木ならば、部屋に入る時に一本、出るときに一本だろうと、背柳は思う。無くなったからといってすぐに吸うような人間ではないはずだった。
コーヒーのこともそうだ。いつもなら、背柳用に温度が調整されたコーヒーを味がわからないくらいの速さで一気飲みすることなどしない。生ぬるいコーヒーでも桂木はおいしそうに飲んでいたはずだ。
それに、桂木君も確か、猫舌じゃなかった?
桂木の周りに煙が立ち込めている。
背柳から話を持っていかなければ、桂木は肺がんでいまにでも死んでしまいそうに思えた。背柳も、副流煙をあまり吸いたくはなかった。
「で、本題は何なの?桂木君、さっきから何かを言いたそう。遠慮せずに言って。桂木君らしくないわ」
 桂木はまた煙草を灰皿に押し付ける。灰皿には桂木が捨てた吸殻がかなりな量溜まっている。桂木は次の煙草を取り出さなかった。煙の出ないため息をつきながら、背柳の方を見る。
「背柳さんが寝ている間に、上から命令が届きました」
 上からの命令とは、背柳が所属している軍の兵器開発研究科の上位に位置する機関からの命令のことだ。背柳もやはり軍関係者であるから、上からの命令というものには逆らえない。だが、大抵の場合、命令といってもあくまで形式であり、背柳が要望に対して許可を出すようなたぐいのものだった。
 桂木は、背柳と目を合わせたり、そらしたり、何か落ち着きがない。煙草をやめてからますます挙動不審が顕著になっていた。
「で?」
 背柳は桂木に促す。
「非常に言いにくいことなのですが」
「で?もったいぶらずに、単刀直入でいいよ」
「そうですか。これを聞いたら、背柳さん、すぐにでも上層部にかけあいそうですが、もうすでに終わってしまったことなので、そういうことはしないでください。怒っても、結局終わってしまったことなので、怒るのもやめたほうがいいかもしれません。疲れるだけですから。背柳さんが怒るのは勝手ですが、やつあたりをくらうのは私であることをくれぐれもお忘れなく」
 非常にまわりくどかった。
 ようするに、「過ぎてしまったことだから許してくれ」とあらかじめ言っているようなものである。いつも堂々としている桂木がこれだけおどおどと喋っているのを見るのは初めてかもしれなかった。余程のことなのだろう。
 余程のこと?
 いったい、何を桂木君は言おうとしているのだろうか。私が上層部にかけあったり、怒ったりするようなことなんだろうけど、想像もつかない。ただひとつわかるのは、エリのプロジェクトに関することっていうことだけ。
 エリプロジェクトの中止。それはない。このプロジェクトには億単位の金がかかっている。いまさらやめることはできないはず。研究員の誰かが死んだ。いや、それもない。みんな健康だし、事故が起きたとしても、それは上層部の命令が原因であるはずはない。起動実験の失敗の責任をとらされ、背柳なぎさがエリプロジェクトからはずされる。それもない、はず。私以上にエリについて詳しい人間はいないし、私がいなければプロジェクト自体が進まない、はず。
 背柳は、どんなショックなことを言われても大丈夫なように最悪な状態を想定して、心に余裕を持たせ身構えた。
 一度軽く息を吸う。
「いいから。で、上はどういう命令を出して、私の寝ている間にどういうことが行われたの?」
「私が喋ってもいいのですが、これに全部書いてあります」
 そう言いながら、桂木は鞄から取り出した紙を背柳に手渡す。背柳は障害箇所報告のレポートをテーブルの上に置いてから受け取った。
 テーブルに肘をつき、眺める。
 その紙には、背柳がぼんやりと考え、実行には移さなかったエリの修復方法が明確に記されていた。
『暴走した原因はわかりきっている。システムにバグがあるからだ。では、システムのバグとは何か。起動実験を行う前のエミュレート時には、バグなど発見されなかった。バグはシステムを起動したことにより生じた。もしくは、とても小さなバグが、起動とともに巨大になりシステムに影響を与えたのかもしれない。バグとは、プログラムをした時点では予想がつかない現象を引き起こすものを言う。この兵器で、プログラム時の想定外なことというのは、自律機能の発生である。自律機能それ自体がバグにより生まれたものであることには疑問の余地はない。このバグが発生したことにより、連鎖的にシステムにバグが発生し、最終的に暴走したと考えられる。バグがあることがわかるが、原因が特定できないとき、それでもバグを取り除きたいとき、やらなければいけないことはひとつ。システムの再インストールだ。まっさらな状態にすれば、バグは消える。現在、国際情勢が悪い方へと向かっている。近いうちに戦争が起こるだろう。われわれは兵器が一刻も早く完成することを望んでいる。できるだけ早く再インストールを実行し、その結果を報告せよ』
 背柳の汗が急速に引いていく。自分の身体の感覚が小さくなっていくような錯覚を覚えた。
 正論だった。
 反論の余地がなかった。
「結局、『自我や自律機能などどうでもいいから、まともに動き使う人間が安心できる兵器を作れ』ということです」
「で、この命令通りのことを、私が寝ている間に、やった、わけ?」
「命令のとおり、我々はエリのシステムを再インストールしました」
「再インストール!そ、そんな重要なことを私なしで実行したわけ?」
「はい」
 背柳は両手をテーブルに打ちつけ、テーブルを乗り越えるようにして体を桂木のほうへ乗り出した。コーヒーカップがいかにも割れそうな陶器の音を出して小さく跳ねた。灰皿は煙草の重みのせいなのかまったく飛び跳ねなかった。
 再インストールとは、システムを何も記録していないまっさらな状態にして入れなおすことである。記録されているものをすべて消去し、システムも消去した状態で、システムを入れなおす。使ううちにバグが発生したのであれば、この再インストールという作業でバグは消える。起動をしない状態ではバグが何もなかったのだから、起動していない状態にシステムを戻せばバグは取り除かれるという理屈だった。
 だが、それは、今までそのシステムに積み上げてきたものがすべて失われることを意味する。バックアップをとっておけばある程度元に戻すことができるが、バックアップ自体にバグが含まれている可能性もあるので、完全に安全な部位のバックアップのみが元に戻され、ある程度の量のデータが失われることには変わらない。
「桂木君、あなた、エリに何をしたのか、わかっているの?」
「エリを修理したんですよ」
 桂木は表情を変えずに答えた。
「エリの、エリの自律機能を消去したってことなのよ。君は、世界初の自我を持つ人工知能を消去したってことなのよ」
バグが取り除かれたとしたら、自律機能は消去されたに違いなかった。あれは背柳の理解できない理由により発生した事柄なので、再現することは不可能だった。
「とりあえず、テーブルからこちらへ乗り出すのはやめてもらえますか?」
 桂木は背柳と自分の間に両手をいれて、押し戻す仕草をした。背柳は促されるまま席へと戻る。
 テーブルを叩いた両手が痛かった。
 桂木は煙草を取り出し、火をつける。
「まず、確認したいことがあります。それを確認してから、私に文句なりなんなりを言ってください」
「なにさ」
 背柳はテーブルに両肘をついて桂木の方を見た。
「エリは、兵器です。それを忘れてはいけません」
「あたりまえじゃない」
「兵器ならば、要求される事が実行できる性能があれば十分です」
「わかってるわよ」
「では、この高度戦略情報兵器に、自律機能は必要ですか?」
 桂木は煙草の灰を灰皿の縁で落とし、聞く。
「残念だけど、ない方がまし。そんなこと、わかってる。私が言いたいのは……」
「本当にわかっていますか?戦場で望まれる最上の結果を残せるような兵器を作ることが我々の最優先事項です。いらないものは、極力排除するのが本来の兵器のありようではないですか?」
「わかってるわよっ。兵器は考え得る限り最大限の能力を発揮しなければ役に立たないのは、わかってる。けど、あれは、人工知能だったのよ。世界初の。出現が偶然だとしても、私が開発した人工知能だった。なのに、なんで、消したのよ……」
 語尾は次第に小さくなり、言葉は背柳の心の中へと潜り込んでいく。それは空気の振動を起こさずに、ただ背柳の心の中でのみ反響した。
 あれは、私が、私が創り出した人工知能。誰がどう言おうと、私が創った人工知能。なのに、なぜ、なぜ……。
 私が創り出したのに。私のプロジェクトの中で生まれたのに。私が計画して。私が指示をして。私が……。
言葉が心の中でくるくると回る。言葉は心の中で身体の内であちこちにぶつかり、ばらばらになりながらも、核心部分は砕けずに回っていた。
くるくると回る言葉の中で、背柳の感情も一つの形を取らずに回り続ける。
回り続ける感情は目の前にいる桂木に向けられている。回る感情のほとんどが負の感情だった。プロジェクトに関する様々な感情が渦巻くが、心のどこかでは、回り続ける言葉と感情を冷静に眺めている自分がいた。
回転は徐々に速度を上げていく。
エリの生き死には私が握っていなければならないのに、消し去ってしまったら。
「私の功績をも、桂木君は消し去ったのよっ」
 心の中で回転していた言葉が、瞬間的に声になって飛び出た。あわてて口を押さえる。だが、空気の振動は確実に桂木の鼓膜に届いている。言ってしまってからでは遅すぎた。
 背柳は口を押さえたまま、桂木の方を見上げる。桂木の方が頭一つ分背が高いため顔を見るには見上げなければならなかったからだ。
 桂木は、ただ、煙草の煙を吐いて背柳の方を見ていた。
 目をつぶって、ただゆっくりと煙を吐いていた。
「やはり、背柳さんも、結局は、自分自身の名誉が大事だっだってことですよね。なんだかんだの口実をつけて、自分が発見した功績を埋もれさせたくはなかっただけ。私、失望しました」
 背柳の顔を見る桂木の目は冷たかった。だが、目が合った瞬間に桂木の目は一転して穏やかになる。
「いや、別に構わないですよ。人間は誰かに認められたいがために生きているようなものですから。私を恨んでも構いません。正しい判断だったとはいえ、私は恨まれるようなことをしたのですから。けれど、あなたは勘違いをしている」
「なにさ」
 思わず口に出してしまった自分の本音に後悔しながら、背柳は桂木とずっと目をあわすことができなかった。エリの修復個所についての紙に目を通すふりをしながらぶっきらぼうに聞いた。
「背柳さん、私は、エリからの自律機能の完全消去に成功したとは一言も言っていません。勝手に勘違いをしていませんか?」
「え?」
 目を上げる。
「背柳さんが眠っている間に、いろいろなことが起きましてね」
桂木はどうやらにやついているようだ。
「なんなのさ」
「子は親に似ると言いますから。エリの性格があまりにも背柳さんに似ているんで、背柳さんの行動がエリがとるような行動と同じなので、面白かったのですよ」
エリの性格が、私に似ている?
性格?
「どういうことなの?」
「まあまあ」
 桂木は立ち上がり、テーブルの上にある二つの空のティーカップを手にとってコーヒーメーカーの方へ歩いていった。湯気の立つコーヒーを注いで戻ってくる。
「まあ、コーヒーを冷めるくらいゆっくりと飲みながら、お話しましょう。背柳副主任」
 展開がよくわからないが、背柳はとりあえず受け取ったコーヒーに口をつけた。
 舌の細胞が死んだんじゃないかと思うほど熱かった。


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創作日 7/31/2002
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