確率崩壊

2,日常な非日常




 ルシャ・メディンが彼に会ったのは、七歳の時だった。
 内戦が国中を覆い、無秩序が秩序に代わって祖国を支配してから五〇年が経っていた。ルシャは隣国との境目の難民キャンプで生まれ、母親も難民キャンプの生まれだった。父親はいない。度重なる空爆と略奪で、ルシャが生まれる前に行方不明になっていた。毎日がただ生きるための生活だった。今日を生きるために努力して、今日が生きられたら明日を生きることを考えるような、そんな生活。
 そんな環境の中で、彼に出会った。
 彼は沢山の兵士を連れて難民キャンプへと訪れた。その時ルシャは風邪をひいてテントの中にうずくまっていた。
 閉じられたテントの暗闇の中で、無数の兵士の足音と、それを迎える難民キャンプの人たちの歓声が、布越しにくぐもって聞こえていた。
 足音と歓声がうるさくて、耳をふさいでいたのを覚えている。風邪のせいで何もできない自分の無力さを幼いながらも感じていた。
 テントに光が射し込んだ。
 逆光の中、大きな手がルシャの方へと伸びてくる。ルシャは熱で朦朧としながらもその手をつかもうと手を伸ばした。
「本当に、この子にまともな生活をさせてくれるのですね?」
「ああ、カルウは弱きものを助けよと仰っている。カルウを信奉すれば、この子には衣食住、そして学問の機会を与えよう」
 意識の遠くの方で、母親と誰かが話しているのがぼんやりと聞こえる。
 ルシャはテントの中にさしのべられた手を、自分の小さな細い手でつかんだ。大きな手は、ルシャの手を強く握り返した。
「今は小さいその手に秘められた力を、ともにカルウの為に使おうではないか」
 そんなような事を言われたのではないかと、ルシャは思っている。その時のルシャは熱ではっきりと彼との出会いを記憶していなかった。

 ルシャは目を覚ました。どうやら夢を見ていたらしい。また小さな頃の夢だ。
 彼の顔はいつも逆光で見えない。彼に初めて会った瞬間だというのに覚えていないのが悔しい。
 ハンモックからゆっくりと降りる。
 白いつなぎへと着替える。
 着替えながら、隣にあるハンモックを見る。ハンモックには人が眠っていた。
 シュハラはまだ眠っているらしい。
 起こさなければならない。もうすぐ礼拝の時間だった。シュハラが礼拝を欠くことになると、同室者であるルシャにも責任が追及される。
 ルシャは自分の着替えをすませると、ハンモックの側に立つ。
「おい、起きろ。礼拝の時間が始まるぞ。カルウに対する信仰心があるんなら、きちんと礼拝に出るんだ」
「んん、起きられない。目が開かな、うわっ」
ルシャはシュハラの寝ているハンモックを蹴り上げた。ハンモックは大きく上へ跳ね上がり、人間が飛び出してくる。出てきた人間は床へと肩から落ちた。
「ほら、行くぞ」
 肩を押さえてうずくまっているシュハラが確実に起きていることを確認してから、ルシャは部屋の外へ出た。
 外は、暑かった。
 部屋というのは、ほんの少しのプライベートと、休息が提供される場所にしか過ぎない。家には大きな空間が一つしかなく、それはすなわち、部屋の外は家の外に等しい。ルシャの部屋の周りには同じような石でできた二人部屋がいくつも横に並び、それらを大きく石の壁が取り囲んでいる。寝るための家、食事をするための家、礼拝のための家、部屋の一つ一つが家だった。
ルシャは、礼拝の為の家へと向かう。太陽の日差しが垂直に照り下ろし、乾ききった地面はかなり熱い。だが、ルシャの足の裏の皮は、長年この地面を踏みしめてきた為に厚い。感覚も多少麻痺しているのだろう、ルシャにとってこの熱さはほどよく気持ちよかった。
しばらく歩くと、シュハラが後ろから追いついてきた。白いローブの着こなし方がおかしい。肩が少しずり落ちている。
「これから礼拝だというのに、そのみっともない格好はなんだ。それでは寝坊したということがばればれだぞ」
 ルシャがそう言うと、シュハラは肩をすくめた。
「仕方が無いじゃないか。本当に寝坊したんだから。礼拝の家へ向かうまでに直す」
「今直せよ。みっともない。おまえに本当にカルウに対する信仰心があるのか、最近俺は疑いたくなるよ」
「まあまあ、俺は俺なりにちゃんと信仰しているよ。そうじゃなきゃ、こんなところにいられないだろ?」
「まあ、そうだな」
 ルシャが住んでいるのは、ミンストゥカという宗教学校だった。ミンストゥカというのは、その言葉自身に『神の子達の学校』という意味がある。ミンストゥカの生徒は起きてから寝るまで、他の生徒達とともにカルウの教えに従って生活する。カルウというのは、ルシャの住んでいる地域の広範囲にわたって支持されているタクスチ教の神の事だ。タクスチ教は厳格な一神教で、神をカルウ以外認めない。タクスチ教を信仰している人間は、カルウが預言者の身体を借りて伝えたとされる内容が書かれたミンティオという聖典に則って生活しなければならない。タクスチ教徒は五信六行というものを守らなければならず、一日五回の礼拝もその中の一つだった。
 二人は礼拝の家の前にたどり着く。家の外からも、中にすでに生徒達の大多数が集まっていることがわかった。石でできた飾り気のない立方体の家の入り口には、扉はない。外と中の区別を厳密にしないのが、この地方の建築の特徴だった。

 中へと入る。
 人間が発する熱で礼拝室は非常に暑い。だが、誰も音を立てないためにその暑さは静止していた。自分が動かなければ、暑いと感じることはないのだろう。実際、ルシャは礼拝の家に入る瞬間にしか暑さと感じなかった。中へ入ってしまえば、暑さなど気にならなくなる。
 沢山の生徒で埋まっている部屋の入り口付近に二人は腰を下ろした。床にはむしろが敷かれてあり、膝をついても大丈夫なようになっている。
 ルシャが隣を見ると、シュハラがあくびをしていた。右拳を思い切りシュハラのみぞおちに入れる。シュハラは音を立てずに前にくずれた。
(何するんだ)
 シュハラがみぞおちを押さえながらルシャの方を見る。
(ここがどんな場所か知らないわけじゃないだろう?この礼拝の家に世俗な出来事を持ち込むな。あくびなんてものは人間の欲求の一つの現れじゃないか。慎めよ)
(ルシャはあいかわらず厳格だねえ)
(おまえが大雑把過ぎなんだ)
(っておい、来たぞ)
 刹那、静かだった礼拝の家の空間が、もう一ランク高い静寂に包まれる。あまりにも静かすぎて、ハエが手を洗う音ですら聞こえてきそうだ。ルシャは自分が息をのむ音ですら他の人間に聞こえてしまうんじゃないかと思った。
 入り口とは反対側、礼拝の家の中心に、彼が立っていた。彼は他の生徒達とは違い青いローブをまとっている。ひげも他の生徒達と比べものにならないくらい多くて長い。生徒達の目は彼の一挙一動を凝視している。
「唯一無二であり、偉大なるカルウへの信仰を示せ、生徒達!」
 彼は大きく手を振り上げる。手は真っ直ぐに聖地スマトリェのある方向を指し示している。生徒達は彼が指を指す方向に向かって深く頭を下げて祈る。膝を折って座り、頭を床にこすりつけるようにして祈る。
(偉大なるカルウよ、我らに道を指し示してください……)
 暑さが静止し、空気が静止し、音が静止した。

 ゆっくりと顔を上げる。ルシャの顔には礼拝を終えた直後の恍惚とした表情が残っている。祈りというのは、行うことによってカルウが自分の言い分を聞き入れてくれるのだとルシャは思っている。信仰心が篤いほど自分が願うことがかなうような気がしていた。
 祈りの時間は明確には決められていない。時間というのは人によって異なる。祈りは始める時間が大切であって、終わる時間は大切ではない。個々が満足のいくまで祈ることが、真のカルウに対する信仰心の現れであるとルシャは教わっていた。ルシャは他の人間と比べると長い方で、もし早くに終わった場合、その場にいる全員が祈り終わるまで待たなければならない。
 ルシャが顔を上げると、部屋にざわめきが満ちた。生徒達がおのおの立ち上がり始めている。どうやら、自分が祈りの最後だったようだ。シュハラがルシャのローブの裾を引っ張っている。
(ほら、終わったんだから行こうぜ)
(わかった)
 ルシャがシュハラと立ち上がろうとした瞬間。
「注目!」
 彼が叫んだ。ざわめきが一瞬で消えた。生徒達は動きを止めて一斉に彼の方を見る。
「座りなさい、神の子達」
 生徒達は何も言わずに祈りの時と同じ場所に座った。生徒は、彼の言うことには無条件に従うよう教育されている。彼の突然の叫びに対して異議を唱えるような顔をしているものは一人もいない。それはルシャもシュハラも例外ではなかった。
 ルシャは目を閉じる。
 彼はあたりの空気が完全に静止していることを確かめると、厳かな口調で語り始めた。
「神の子達よ。カルウの教えを忠実に守るミンストゥカの生徒達よ。諸君達は今まで、俗世間の事柄と完全に隔離されて生活してきた。聖典ミンティオに書かれたことを学ぶには、このミンストゥカは最高で最良の環境である」
 彼は言葉を切り、生徒達に言葉が浸透するのを待った。
「私が為したことはあまり無い。私はただカルウの教えに従って為しただけだからだ。このような学びの場所を作ることも、諸君達のような生徒達を集めることも、すべてカルウの壮大な計画の一つに入っている。カルウは永劫に存在し、その計画は我々人間が認知できないほど巨大なものだ」
 空間が静止していた。ルシャは自分の心臓の音が聞こえた。彼の心臓の音も聞こえるような気がした。
「諸君達はここで、様々なことを学んだ。五信六行はすでに諸君達の生活の一部になっているはずである。諸君達は、正しきカルウの子達になるべく学んできた。それらとともに、諸君達に私は他のことも教えた。銃器の扱い方、効果的な人間の殺傷方法、戦場における人間心理。私はこの国で行われるであろうすべての戦争に対する対処方法を諸君らに教えたはずだ。それは何故だかわかるか?」
 答えるものはいない。彼が答えを期待していないことを生徒達は知っていた。
「今、諸君らの世界の外、すなわち、正しきカルウの教えが浸透していない世界では、卑しき退廃が生じている。諸君らが難民キャンプから連れてこられた当時よりも、さらに非道い有様だ。諸君らはそれらを正さねばならない!」
 彼が野太い声で叫ぶ。ルシャは目を開けた。
「この国が何故このような状況になってしまったのか、何故過去50年以上も内戦が続いているのか!それは、過去を試みない資本主義という悪魔が世界を牛耳っているからだ!!資本主義世界の人間は我らとは違う神を信奉する。だが、神は唯一無二のカルウのみ存在する。実在のしない神を信奉することにどのような意味があるのか!彼らは、己の利益、快楽のみを追求し、五信六行を実行しない。もちろん、聖典ミンティオを読もうともしない。彼らが聖典ミンティオを手に取るときは、それは商売として利益が予想されるときだけだ。彼らは聖典を他の多くの世俗の書物と同じ扱いをする。このままでは、世界は退廃を続けるだけだ。カルウの計画が汚らしい資本主義の連中に妨害されるのを我々は見ていられない」
 彼は自分のローブのポケットからペンのようなものを取り出した。部屋の中央の白い壁にペン先を向ける。ペン先が白く光る。中央の白い壁にブルースクリーンが現れた。
「昨日、このミンストゥカの外にいる諸君らの先輩達は、資本主義国のアメリカの各地で同時に攻撃を仕掛けた」
 ブルースクリーンが変化する。映像が流れ始める。
 飛んでいく飛行機。炎を上げる車。煙をあげる建物。瞬間的にひらめく炎。人々の逃げまどう姿。
 映像に音はなかった。
 煙。瓦礫。人間。血。
 映像が終わる。彼はペン先の明かりを消した。
「ざまあみやがれ!アメリカ人なんて全員死んでしまえばいいんだ!」
 シュハラが叫んでいた。拳を振り上げている。シュハラの雄叫びに呼応して、部屋全体に歓声の渦が発生した。おのおのが拳を振り上げ、足を踏みならし、叫んでいた。
「よくやった!!」「カルウよ!」「アメリカ人は死んで当然だ!」「俺たちの先輩に感謝を!」「資本主義の国はタクスチ教を見習うべきなんだ!」
 歓声の渦はしばらく続き、やがて、静かになる。静かになったことを確認して、彼は口を開いた。
「諸君らも、カルウの意思となって行動できるほど研鑚をつんできた。今日から、諸君らはカルウを信奉する9億の民の尖兵となるのだ。アメリカは、諸君らの先輩が為した行為に対し、報復を決意したそうだ。近々我々の国へ攻め込んでくるだろう。アメリカはしきりに『首謀者を出せ。裁判にかける』と言っている。だが、賢き諸君らならわかっていると思うが、首謀者などいない。先輩達が行ったことは、すべてカルウの意思によるものであり、首謀者が誰かと聞かれれば、それはカルウその人だと答えるしかない。アメリカは神を裁こうとしていることになる!これは聖戦である!われらの信仰心がどのくらいのものなのかをカルウが見る試練でもある!我々は勝たねばならない。我々はアメリカの侵略に対し、確固たる信念で戦い抜くことをここに決意する!」
 彼はそう言うと、ゆっくりと部屋の中央を通り外へと向かった。
 その場にいる全員が音を立てずにすっと立ち上がる。何も言わずに、彼の後ろをついていく。ルシャ達も他の生徒達に倣った。
(俺はやるぜ。俺はこのままじゃ終わらない)
 後ろからついてくるシュハラが、ルシャに耳打ちする。
(非常事態になって、君はようやく熱心に活動するようになるのか)
(俺がここで学んできた意義はそこにあるのだから、当たり前だ)
(そうか)
 ルシャは祈りの家の外へと出る。
 太陽を手で隠したくなるほど日差しがまぶしい。だが、ルシャは太陽の方向へ手をかざしたりはしない。手は太陽を隠すためにあるのではないからだ。
 これから戦争が始まる。その事実は、ルシャの心を沸き立たせた。アメリカ兵に向かって引き金を引いている自分を想像すると、全身に血が行き渡るような気がして、たまらなくうれしかった。
 もう、以前の自分は存在しない。
 以前の自分は十年前に難民キャンプに置いてきた。
 いまここにいるのは、能力の開花した別の自分だ。
 ルシャは拳を握ったり開いたりして、自分の心の高まりを抑えた。

 真上に輝く太陽の下、真っ白いローブを着た人間達が黙々と行進する。どの人間もまっすぐに前を見て、瞳は澄んでいる。
 列は決して乱れることはない。
 彼らはエリートなのだから。
 国中から集められた優秀な少年が、十年間同じ時を過ごし、優秀な信徒となる。
 頭の回転に秀で、どんな状況でも的確に判断ができ、与えられた兵器の能力を限界近くまで引き出せる優秀な兵士でもある。
 彼らは、信徒であり、兵士であり、技師だった。
 彼らには迷いはない。


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創作日 7/31/2002
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