1,非日常な日常
| 真新しい空気、真新しい家具。白を基調としたこともウリのシンプルな電化製品の数々。 片浜圭はその中にいる。 部屋はきれいに片づけられ、不要な物は何もない。あらねばならないものがあらねばならない位置に置かれている。ポスターも何も張っていない壁はやけに殺風景に思え、片浜は何かのポスターを貼ろうと決意していた。 不要な物はすべて持ってきていない。大抵の引っ越しというものは、捨てるに捨てられなくて新しい住まいに持ってきてしまう不要品があったりするのだが、片浜の家にはそれがない。不要どころか、本人が必要だと思った物まで不要品のラベルを付けられて捨てられていた。部屋の中にほとんど物がないのはそのためだ。 高校二年の夏。 突如の引っ越し。そして家族との別居。つまりは一人暮らし。 片浜にとって、意味のわからないことばかりの夏だった。 片浜本人が望んだわけでもない、勝手に進んでいった日常。日常は気づいたときには非日常へと変化していた。それなりに勉強を頑張って入った高校を転校し、一人暮らしをすることになった地域の近くにある高校に転入する。片浜は一度もその高校の名前を聞かされていなかった。ただ、引っ越しをする直前までわかっていた情報は、『遠くで一人暮らしをしなさい』というよくわからないものだった。 ただ、今まで住んでいた地域から大きく離れることだけがわかるような、そんな情報。 聞かされなかった方が良かったんじゃないかと時々思うことがある。 教科書も進度も違う授業が片浜を待ち受けているのは明らかなことだった。転校とは本来そのような物だと片浜も知っている。いままでのなじみの物が何もない生活を強いられることになって、少しでも知っている物があるとうれしかったのだが、残念ながら何もない。知り合いがいるわけでもなく、親戚がいるわけでもない。おそらく、半径200キロメートルの範囲には片浜の顔を知っている者はいないだろう。 片浜も、誰からの束縛を受けない一人暮らしというものに憧れるような普通の高校生だったが、今回の一人暮らしに関しては、うれしい、楽しい、というプラスの感情はなかった。まったくの唐突に、片浜の両親が言い出したことだ。 いままでの高校生活がうまくいってなかったわけでもなく、片浜家の近所づきあいに破綻がおきたわけでもなく、当然離婚という問題でもなく、これといった問題がなかったというのに、突然の両親による「一人暮らしをしろ」宣言。その事を高校の近しい友人にうち明けても、友人は彼が何故疑問を浮かべるのかわからないという顔をして、笑って「向こうでも元気でやれよ」としか言わなかった。学校側も、こころよく片浜のことを送り出そうとしている節があった。 わからないことだらけの夏だった。 だが、まだ夏は終わっていない。 新しい学校には二学期から転入することになっている。二学期が始まるときはまだ夏だ。ということは、まだ訳のわからない夏が続くということになる。 「ふう」 突然の引っ越しはさまざまなごたごたが続いて、すでに深夜になっている。段ボールを運びすぎた腕が痛い。あと八時間もすれば、片浜は新しい高校へ登校しなければならない。一緒に行く友人はいない。高校のすぐそばの場所の為、歩いて十分で着く。 「今日は確か満月」 片浜は散歩に出た。 見たことのない町並みを歩く。 街灯の明るい光のせいで、満月だという実感があまりない。車も人もいない車道の中央を歩いた。 何も音のしない、静まりかえった街。靴のしたで冷たく感じられるアスファルト。これが朝には、学校へ登校する小学生や中学生や高校生でいっぱいになるという。今度片浜が通うことになる高校は小中高一貫教育校らしい。車道は登校時間には歩行者専用に変わり、交通事故を防ぐそうだ。 田舎の再開発だかそういうような名目でこの街は作り替えられた。 街は子供の教育を最重点化して設計されている。街には学校が一つしかなく、その学校へ行くための道順に沿って交通機関が作られている。地下鉄の駅が学校の地下にあるのはこの学校くらいだろう。学校には全国で教え方に定評がある教師のみが集められ、非常に良い教育が行われている。この学校に通うために通学に2時間かけてくる生徒もいるらしい。進む少子化と高齢化に対応した、公立の次世代の学校のモデル校らしい。 と、片浜は昨日学校のパンフレットを読んで知った。 それまでは、この学校の名前は聞いたこともなかった。 パンフレットによると、全国の津々浦々からこの学校に入りたくて引っ越しをしてくる人が後を絶たないらしい。転入ということは非常に難しく、転入試験を受ける資格審査を通る生徒は、他の学校であれば旧国立七大学に受かるほどの能力があるので、試験自体に落ちてしまっても別に問題はありませんと書いてある。そして、うまく転入試験を通って転入できた生徒は間違いなく伸びますとも書いてある。 だが、片浜は、転入試験を受けた記憶がない。自分が何故この高校に入ることになったのか何か手がかりがあるかと思って開いたパンフレットだったが、わからないことがまた一つ増えただけだった。 歩いているうちに、学校の前についた。 現代建築を生かした少ししゃれた外観だが、別に他に無いほど独特っていうわけではない。四〇〇メートルが走れそうなグラウンドも、五〇メートル泳げそうなプールも、今の時代どの学校にもあるから珍しくはない。いたって普通の学校に見える。月明かりのみで照らされる学校は何かが潜んでいそうで少し不気味だった。 上を見上げた。 星が見えた。 大きく光る満月と、無数に散らばる星々。天の川がどれかはわからないが、北斗七星はよく見えた。 街灯は相変わらず明るかったが、学校には人工の明かりは無く、空をよく見渡せた。学校は月明かりでほんのりと光っている。 なぜだか少し寒かった。 夏が終わりに近づいている証なんだろうかと片浜は思う。片浜が以前に住んでいた場所はよく熱帯夜になったのだが、この土地には熱帯夜というのが存在しないのかもしれない。そう思うと、ほんの少し、ここへ引っ越してきて良かったのかもしれないと思えた。 それは本当に、ほんの少しでしかない。 ほとんどの学校にあるもの、それは職員室だ。 大抵、転校してくると職員室へと案内される。そこで今回担任となる教師と対面し、その後入ることになったクラスへと連れて行かれる。片浜は小学生の時に転校したことがあったが、高校になっても転校した生徒のやることは同じらしい。 だが、この高校の職員室は普通の学校の職員室とは大きく違っていた。 扉は同じだった。「職員室」とかかれたプレートが扉の上の方に張り出すように取り付けられていた。片浜が職員室の扉の前に立つと、扉が自動的に開いた。開くとともにチャイムのようなものがあたりに鳴り響く。 チャイムの意味はわからない。だが、とりあえず中へ入らなければどうしようもないので、中へと足を踏み入れた。 身体が全部職員室の中へと入る。再び目の前に扉がある。後ろの扉が勢いよく閉まる。閉まった瞬間に天井から三本のパイプらしきものが現れ、片浜に向かって煙のようなものを噴射した。真っ白で何も見えなくなる。噴射は2秒ほど続いた。煙が晴れると、『入っても構いません』というきわめて事務的な口調がドアの高いところから聞こえ、目の前の扉が開いた。 わけがわからなかった。 片浜が今回転入するのは、国立莢林高校の二年三組だった。職員室へ入って、白衣の人に促されるままに一つの机に案内されると、いかにも体育教師といった体格の髪の短い教師が椅子に座っていた。歳は二〇の後半もしくは三〇の前半のように見えた。スポーツマンが若く見えるとするならば、三〇の前半なのだろう。 「君が転入する二年三組の担任の小渕孝だ。よろしく」 「こんにちは」 片浜は差し出された手を握った。 「これから教室へと案内する。この学校は地磁気が狂っているので迷子にならないように注意しなさい。まあ、迷子など滅多にいないんだがね。ははっ」 「何故地磁気が狂っているんですか?」 「狂っているからさ」 そう言って教師は豪快に笑う。何も恐れるものがないかのような、そんな笑い方だった。片浜には、何故地磁気が狂っているとそんなに笑えるのかよくわからなかった。 地磁気と方向感覚に関係があると言われている。渡り鳥やクジラなどは何も目印のない場所でも自らの進む方向を把握でき、それは地磁気を感じることができるかららしい。人間が樹海などで方向を見失うのも、コンパスの針が正常に向かないことの他に、方向感覚が狂ってしまうことも理由の一つになっているらしい。それは俗説だと言う学者もいれば、周知の事実だと言う学者もいる。脳の中で何かが起こっているのは確かなのだが、その何かが方向感覚を消しているかどうかはわからないそうだ。 だが、こうやって思い出した事柄は、この学校が何故地磁気が狂っているかの説明にはなっていない。理由は片浜には全く想像がつかなかったが、目の前にいる教師も多分理由を知らないのだろう。 「よし、クラスのところへ行こうか。二年三組は二階にある」 教師は片浜の肩に手を置いた。そしてそのまま立ち上がった。 片浜は入ったときとは違う出入り口を通った。そこは教員専用らしく、ノズルも煙も出てこなかった。 なんだか悔しかった。 「はい、静かにしなさい。お待ちかねの転校生だ。そこ、写真撮らない。肖像権の侵害だぞ」 片浜が入ったとき、教室は騒がしかった。小渕がなんども教卓を出席簿で叩いている。机は女男女男女男と六列に並んでいる。フラッシュをたかれたり、「意外とかっこいいじゃん」という声があがったり、その声に応答して「俺の方がかっこいいぜ」、「あんたをかっこいいと思っているの、あんた本人だけじゃん」、「そうだそうだ」、「なんだと?」というようなやりとりがあちこちで起こっていた。小渕はしばらくクラスが静まるまで待っていた。片浜も同じように小渕の隣に並ぶように立っている。 「静まったな。今回は意外と早かったな。この前と比べれば上出来だ」 笑い声がおこる。多分、片浜の知らない事実に対して笑ったのだろう。片浜は笑われるような行動をしていないつもりだった。小渕はまた生徒達が静かになるまで待った。 「ええ、今回も転校生に自己紹介してもらう。はい、どうぞ。黒板を使ってもいいし、そこのマルチメディアドライブに入れるものがあったら入れてもいい」 小渕が指で指し示した場所を見る。教卓の隣にはスリット付きの小さな機械が置いてあった。機械は教卓の色とほとんど同じで、教室にあっても不自然ではないようになっているらしかった。 一度注意深く教室を見回してみる。 自分のことを見つめている生徒達ではなく、教室の設備に目を走らせた。天井にはプロジェクターと思われる一眼のレンズ付きの設備が壁のつや消し白に混じるように設置してある。天井には他にも様々な突起物があり、火災時用のスプリンクラーや、用途のわからないフジツボのようなものもあった。スプリンクラーをのぞいて、どれも普通の高校の普通の教室にはない設備だった。マルチメディアドライブというものも当然、以前いた高校にはない。スリットの形状からして、多種類の光磁気メディアを読むことができるのだろうと想像できた。 「おい、早くしろよ」 小渕がせかした。片浜は仕方なく黒板へと自分の名前を書く。こうやって黒板に自分の名前を書いたのは、小学生の頃の引っ越し以来だった。 綺麗な緑色をした黒板を、『片浜圭』という言葉で汚す。自己紹介には機械などいらない。ただ、自分の名前を書くだけだった。 自己紹介が終わる。 「というわけで、片浜圭っていうやつだ。仲良くやってくれよな。座席は、うん、そこに空いている席があるだろ?窓際の一番後ろ。そこに座ってくれ」 小渕がまっすぐと指を指す。どうやら、この教師は指を指すのが好きらしい。片浜は小渕が指を指した方向へ向かって歩いた。片浜の目線の先には、誰も座っていない真新しい机が見える。片浜が座るために新しく用意されたものだろう。机や椅子は他の学校と変わらないただの椅子と机だった。他の生徒の好奇心の視線を全身に浴びながら席へと向かった。 椅子は普通の座り心地だった。 「片浜には早速今日の一時間目から授業を受けてもらうわけだが、やはり教科書は今日までに間に合わなかった。だから、誰か片浜に教科書を……」 「はーい!先生、私、教科書貸します!」 小渕が言い終わる前に、片浜の隣の女の子が大声をあげた。発声とほとんど同時に机を持ち上げて、勢いよく片浜の机と隣接させる。片浜は声をあげた女の子の方を見た。 「あ」 二人揃って小さく声を上げる。机を隣接させた勢いでバランスを崩していたらしく、片浜の目と鼻の先に女の子の顔がある。あわてて女の子から離れるように片浜は立ち上がった。だが、横は窓であり、後ろは壁だった。身体をどこかへぶつけるのは必然だった。側頭部を鋭いようで鈍い痛みが襲う。片浜は窓へぶつけうずくまった。 「ほら、そこ、ラブコメするなよ。授業始めるぞ」 クラス中から大きな笑い声がおこる。女の子は頭をかきながら「ごめん」と小さくつぶやきながら自分の椅子へと座り、教科書を二つの机へまたがせた。片浜も頭を押さえながら自分の席へ座り、筆入れやノートをとりだした。 教科書を見て必死に授業へ集中する。だが、顔が至近距離にまで近づいた女の子が自分のすぐ隣にいるという状況は、すこぶる片浜の集中を妨げた。 知的な瞳、額に巻かれた赤いバンダナ、形の良い唇。 結局、その日は勉強などできなかった。 現在、世界は今まででもっとも小さくなっている。 背柳なぎさは、カップラーメンにお湯を注ぎながらぼんやりとそんなことを考えた。部屋は昨日の起動実験の成功を祝う飲み会の会場に使われたせいで、酒の瓶やらビールの缶やらが転がっている。背柳自体は酒が飲める方ではない。酒を飲むとすぐに真っ赤になって眠ってしまう。覚醒と睡眠の境目が曖昧で、背柳が眠っていることに気づかない人も多い。たいした量を飲んでいないのに翌日頭痛に悩まされるのだからたちが悪かった。遅く起きた朝、はいはいはいと他の人間を部屋の外へと追い出して、朝ご飯を用意するのが面倒くさくて、カップラーメンにお湯を注いでいる。 軽くしびれた頭で、背柳は小難しいことを考えることが好きだ。 いつも難しいことばかりやっているから息抜きがわりにというのも理由の一つだったが、それよりも大きな理由がある。飲み会の次の日の朝の、誰もいないたった一人の瞬間が好きなのだ。仲間達が頭痛でダウンしていれば、誰も自分に話しかけようとする人間はいない。 現在、世界は今まででもっとも小さくなっている。 超音速ジェットなどの交通機関も世界の縮小化に貢献してはいるが、もっとも大きく貢献しているのはもはや世界的な流れになっているアメリカンスタンダードのグローバリゼーションである。軍事技術として生まれたインターネットが、全地球規模でくまなく広がり、情報は瞬時に伝わるようになった。 過去、世界のどこかの国が他の国に与える影響は、その時の最速の情報伝達方法よりも早くは伝わらなかった。新大陸アメリカでどんなことが行われていようとも、それがヨーロッパに伝わるためには船が往復しなければならなかった。ヨーロッパから日本の種子島に鉄砲が伝わる速度も、宣教師の宣教スピードを超えることはない。 だが、現在、インターネットという全地球規模ネットワークは、情報の可能伝達速度を全宇宙最速の光とほぼ同じにしてしまった。光は一秒で地球を七周半回る。世界のどこにいても、インターネットがめぐらされている場所ならば、すべての情報が一秒以内に伝わるようになった。それは、世界が互いに干渉しあって存在しなければならないことを意味する。世界のどこかで起こした行動は、それによる影響を人間が考える前に広範囲に影響を与えてしまう。与えられた影響がまたあらたな影響を与え、相互に絡み合う。国家は国家として真に独立しているわけではなく、他の国家の影響を受けなければ国家として存続できない。 そのため、国家対国家という大規模な戦争は起こりえなくなった。 戦争には二通りある。 国防戦争と国益戦争だ。国防戦争は他国に侵略されたときに起こる戦争で、「やらなければやられる」ときにやる戦争だが、国益戦争は違う。国益戦争とは、「やらないよりはやった方がいい」というときにやる戦争である。政治的問題、経済的効果、政権維持などのあらゆる要素を計算して、したほうが得となった時に始められる。 国家対国家という大規模な戦争が起こりえない理由がここにある。世界の情報の共有化、経済の相互依存により、敵となる国家がいない。どの国家を敵としても、敵とした国家と経済的に絡み合っている部分がある友好国が存在する。友好国が不利益を被れば、その友好国と経済的に絡み合っている自国も不利益を被ることになる。自国の不利益となるならば、敵とした国家と戦争をするのは得ではない。よって、その国家を敵とするべきではない。 さらに、世論の問題もある。マスメディアと通信ネットワークの発達により、戦争で何が行われているのかわかるようになった。以前は、戦いの前線にいるものにしかわからなかった戦争の凄惨さ悲惨さが、お茶の間のテレビで見られるようなった。戦争を起こした政府は、その戦争の正当性を主張し、世論に認められなければ政権を維持できない。 そして、さまざまな事象が絡み合って、世界は新たな局面に入った。 個人対国家の戦争だ。 実力のある個人は、効果的な攻撃ポイントさえ選べば、国家全体、世界全体に影響を与えられる時代になった。個人対国家という戦争は、国家にとって非常に分が悪い。世論は対象となる個人に対する攻撃を熱烈に支持するが、関係のない一般人は巻き込むべきではないと考える。だが、一般人という線引きが非常に難しく、ピンポイント攻撃は精度が悪い上に金がかかる。そのため、どうしても一般人を巻き込むことになる。かといって、自国の兵士や特殊部隊などを戦地へ向かわせて対象の個人への攻撃をするとなると、自国の兵士が死ぬことになるかもしれない。世論というものは、遠く離れた地の民族も違う一般人の死よりも、自国の兵士の死のほうを嫌う。現代の世論には戦争で兵士が死ぬこともあるという認識がない。 そういう状態で、戦争の技術はどういう方向へと向かうかは明らかである。 自国の兵士を殺さず、かつ、対象となる個人を攻撃する方法を生み出す方向だ。 特殊部隊というのは非常に効果的だが、人間が犠牲となる可能性がある。では、特殊部隊を人間以外のもので構成すればいいのではないか? そう思った人間が出てきても不思議なことではなかった。 そして、量子計算機搭載型高度戦略情報兵器が生み出された。 今まで培ってきた特殊部隊の戦術が利用でき、かつ、人間が使用できる兵器をそのまま流用できる兵器。そして、戦術が理解でき、命令を躊躇無く遂行できる頭脳を持つ兵器。 平たく言うと人型兵器である。 ある程度環境から学習でき、運動機能を人間並かそれ以上持ち、ある程度の決断ができる為には、膨大な演算能力が必要だった。従来の半導体ベースのコンピュータでは作れないのは明らかだった。沢山の計算を一度に並列に処理し、実行するには、量子コンピュータが必要だった。 そして、不可能なことなどこの世にはないと思いきっている科学者が、ついに実用レベルの量子コンピュータを作り出した。 一度作られれば改良は早い。あっという間に頭部に収まる大きさの量子計算機が開発された。 そして、量子計算機搭載型高度戦略情報兵器プロトタイプ『エリ』ができあがった。 背柳は、当初、当たり前のことだが、これを兵器と見ていた。自分は科学技術の最先端にいて、自分自身があらたな最先端技術を作り出せたという事実に酔いしれていた。 以前は、兵器自体の用途には関心はなく、それがどこでどういう用件で使われようとも気にしなかった。大量殺戮兵器でなければ、良心が痛むことは無いと思っていた。 エリは失敗作だったのかもしれない。失敗だと思った瞬間に起動を停止させて分解しなかったのが失敗だったのかもしれない。 いつもなら、プロトタイプの動作を洗練したものへと昇華し、どこへ出しても恥ずかしくないような性能にして軍へと兵器を引き渡す。今回も同じようにするはずだった。 だが。 脈打つような頭の痛みのリズムにゆだねたまま、背柳は昨日のことを思い出す。 「主任、エリが勝手に動いています!動力、運動系、感覚系、頭脳系、すべて正常値です。それなのに、それなのに、私が指令を出す前にしゃべり出しました!」 棺桶のようなケースのふたを開けて、上半身を起こしたままきょろきょろとあたりを見回しているエリ。最初に口にした質問に答えるような人間があたりにいないことを確かめたのか、見回すのをやめ、両足をケースの外へ投げ出した。エリはケースに横に座っている。 「誰かいないの?」 もどかしくしゃべった最初と比べれば非常になめらかにエリはしゃべった。 背柳のいる部屋とエリのいる部屋は強化防弾ハーフミラーで仕切られていて、背柳からはエリが見えるが、エリからは背柳が見えていない。エリには、自分が真っ白い壁の中に閉じこめられているように感じるはずだ、と背柳は思った。 感じる? 感じるなどという言葉は使っちゃいけない。 エリはただの兵器で、与えられた指令と、環境情報に基づいた簡素な行動がとれる程度の人工知能しか与えていない。感覚系は非常に限定されている。あれは人間ではない。意図的に環境情報を消去した白い部屋の中で自律的な行動がとれるはずがない。感じるわけがない。 何故動いているの? 背柳には理解できなかった。その場にいる全員も、エリが何故自律的に動いているか説明できなかった。 だが、エリは起動してから一時間近く、夢から覚めたかのように背柳が主電源を落とすまで、自律的に活動し続けた。 部屋をくるくると散歩し、座ったり跳ねたり、時には歌を歌ったりしていた。 背柳には、その行いが不器用ながら生まれてきたことに対する喜びを表す踊りを踊っているように思えた。 電源を落とした瞬間、エリは糸が切れたマリオネットのように倒れこんだ。倒れこんだ瞬間、背柳はエリと目が合った。 兵器には感情がないはずなのに、エリは悲しそうな目をしているような気がした。 起動実験としては大成功だったのだろう。だが、背柳はその時、よくわからない不安を抱いていた。 何故だかわからない。 腕時計を見る。 すでにお湯を入れてから5分が経っていた。 ふたを開けると、麺が少しふくれているのが確認できた。 帰りのホームルームの終了のチャイムがなると、教室はあわただしくなった。 掃除当番に割り当てられた人たちが掃除道具を取りに教室の後ろへ走る。勉強道具を鞄にすばやく詰め込んだ人は、何かを追いかけているかのように教室の前の扉を勢いよく開けて走り去っていく。 片浜はただぼんやりと黒板を写しただけのノートを鞄にしまいこんだ。結局、片浜はずっと、隣で教科書を見せてくれた女の子が気になって、まともに授業を受けられなかった。六時間も授業があったというのに、自分が何の授業を受けたのかすら覚えていないありさまだ。窓の外をぼんやりと眺めたり、シャープペンシルをくるくると回したり、うとうとしたり、非常に建設的ではないことばかりやっていた。 片浜が鞄を手にとって席を立とうとしたとき、数人の男女が彼の周りを取り囲んだ。 「ねえ、君、この学校についてどう思う?」 「うわさだと、おまえ、編入試験受けずに転入したらしいな。本当なのか?」 「公立の超人気校に無試験で入るっていうのは、どういうことなんだい?」 数人が矢継ぎ早に聞いた。彼らが取り囲んだせいで片浜は席に座ることを余儀なくされた。 「ごめん、俺もよくわからないんだ。自分がなぜ引越しすることになったのかもよくわからないし、なぜ俺がこの高校に入ったのかもわからない」 「わからないって、なんだよそれ?」 「謎の転校生ってか?本人も謎に思っているのがみそだな」 「ねえ、君が来る一ヶ月ほど前にも転校生がこのクラスに来たんだけど、何か関係あるの?この学校って、滅多に転入許可出さないことで有名なんだけどさ、一年間で同じクラスに二人って、かなり異例なことなんだよね。高校二年のクラスは六つあるのに、よりによってなんでわが二年三組に二人も転校生がやってきたのか……。謎ね」 片浜は、便宜的に、茶色い髪を非常に長くして後ろで束ねている男を茶ロンゲ、長い二本のみつあみを両足の付け根くらいにまでたらしている小柄な女をみつあみ、根元から先まで赤い髪で小学生かと思うくらい小さい男を赤ちびと名をつけた。 「謎が謎を呼びそうな展開なのよ。君はどう思う?一ヶ月前の転校生とあなたとの関係」 みつあみが片浜に尋ねた。みつあみはなぜか赤い手帳とペンを両手に持っている。 「はあ」 「『はあ』じゃない。このような深遠な謎が目の前に転がっていて、おまえは『はあ』しか言えないのか? おまえは探究心や好奇心という高貴な心を持っていないのか?」 茶ロンゲが言った。それとともに赤ちびがみつあみと同じ赤い手帳を取り出し、開いて片浜のほうへ向ける。 「俺たちは、夾林高校新聞部だ。君のような人物を俺たちは待っていた。さあ、俺たちと一緒に謎を解き明かそうではないか」 赤い手帳の中には、『夾林高校新聞部』と書かれた黄色いカードのようなものが入っているようだ。カードには磁気を読み取る黒い帯のようなものがついている。 「結局、あなた方は部の勧誘にきたってことですね」 「ええ、そういうことになるかな」 みつあみが言う。 片浜は三人にわかるようにあからさまに首を横に振った。 「ごめんなさい。俺、どこの部にも入る気ないんで。自分のことで精一杯なんですよ」 片浜は、以前の高校でも帰宅部だった。別に何か夕方にする用事があったわけではない。自分以外の意思による拘束を受けたくなかったからだ。時間は自分の思う通りに使いたい。何かに縛られたくはないということであるが、ようするに、面倒くさかっただけだった。 鞄を肩に背負って、席を立ち上がる。 「じゃ、寄るところがあるんで、さようなら」 本当のところは、別に用事などない。寄るところもない。 「あ」 片浜は囲んでいる三人の隙間を軽く押し開けて歩き出した。新聞部の三人組は手をつかんでまで引き止めるようなことはしなかった。 妙に眠い。身体中にけだるさが広がっている。勉強に集中していなかったが、ほかのいろいろなことで疲れたんだろうと、片浜は思った。 今日は早めに寝よう、と、あくびをしながら教室の後ろのドアから廊下を出ようとしたとき。 ぐいっと、肩を誰かにつかまれた。 何だ一体、と思いながらゆっくりと振り返る。 知的な瞳、額に巻かれた赤いバンダナ、形の良い唇。 至近距離に、あの女の子の顔があった。 「ね、ちょっと来て」 肩をつかんでいた手は片浜の二の腕へとまわり、女の子は片浜を軸にして半回転するように廊下側へ出た。そのまま腕をつかんだまま片浜を引っ張っている。 力は驚くほど強い。人が二人がかりで引っ張っているような力だった。 「ちょっ」 「ねっ」 「な、」 「ねっ」 すでに後ろ向きに1メートル近く廊下を引きずられていた。ドアのそばで新聞部の三人組が興味深くこちらの方を見ているのが見えた。みつあみは手に持った手帳に何かを書き込んでいる。何が起こったのかと野次馬根性丸出しで人が集まってくる。 このまま二の腕に紐をつけられて車に引っ張られていくような格好をするよりは、素直についていくのが得策に思えた。 身体を半回転させて、自分の足で廊下を歩く。 女の子の赤いバンダナの結び目がひらひらと彼女の頭の後ろで揺れている。振り返らずに、ただ真っ直ぐに歩いている。右手に学校指定のバック、左手は片浜の右手とつながっている。 「ねえ、俺になんか用なの?どこへ連れていく気だい」 「ん〜」 うめくような声を出しただけで、まともな返事は返ってこない。 家に帰ってもどうせ暇だった。 片浜は女の子の力強い左手に従うまま校舎の中を歩いた。 どこをどうやって歩いたのか、さっぱり覚えていない。 校舎の中に地下鉄の駅があるほどの学校だから、校舎の内部は普通の学校とは構造が違っていた。廊下をひたすら歩いたり、スロープを上ったり、階段を上ったり、ときどき階段を下ったり、そしてまた廊下を歩いて角を曲がったり、片浜は女の子に引っ張られるまま歩き続けた。 女の子が急に立ち止まる。 「ここ」 目の前には扉があった。鉄なんだろうか、いかにも重そうで、すこし茶色く変色している箇所がある。女の子は躊躇せずに扉の古そうなノブを回した。 きしむような音が鳴る。 扉の隙間から、空気が流れ込んできている。 その空気はやけに冷たい。 女の子が扉を開け放つ。 最初に見えたのは。 空だった。 青くて、白くて、ぼんやりとしていて、吸いこまれそうな、空。 空の隣で、女の子が笑っている。 女の子の瞳は、空よりも吸いこまれそうな茶色をしていた。女の子の髪は、不自然でない茶色で、外から中へと流れ込む空気でなびいていた。 手を引っ張られながら、屋上へと足を踏み出す。 「天文心理部へようこそ〜。私、部長の佐那田恵理といいます」 知的な瞳が、片浜のことを見つめていた。 まっすぐに見つめていた。 意味がわからなかった。 空は青くて、星は見えないというのに。 |